拡大する足立区
ちょっと前の話だがツイッターを見ていると傷害事件のニュースが流れてきた。被害者も被疑者も未成年の少女。交際相手を巡るトラブルで、事件が起きたのは足立区だという。
「一方的にやられるかタイマンかどっちがいい。ヤキ入れるから手を出して」
足立区で生まれ育った者としてはとても耳に馴染んだ言葉だ。
これでもし「じゃあタイマンで」と言ったところで、我々の想像する「タイマン」とやらが実現しないことも知っている。足立区流の「タイマン」は僕の経験からするとだいたい5対1くらいの対戦になることが多い。1人を4人で押さえつけ、余った1人が殴り続けるというスタイルが主流だった。そして5人の側はかわりばんこに押さえつけ係と殴り係を担当し、みんなが満足しきって僕がのびた頃に終わる。これが僕の経験した「タイマン」の一般的な流れだ。
先ほどのニュースでも捕まったのはやはり5人だったそうだ。5人で囲みながら「タイマン」を提案するというのも変な話だが、足立区に伝わる「タイマン」の意味を身をもって熟知していればその意味はすぐにわかるのだ。だが加害者側としてはこの場面で「タイマン」という選択肢を提示することには大きな意味がある。自分は決して多数の力で1人をいたぶったわけではない、そんな悪いヤツではない、そう思い込むための重要な儀式なのだ。被害者は「タイマン」の本当の意味を知っているから選ぶことは不可能なのだが、事実として被害者は「タイマン」という選択肢を選ばなかった。あくまで被害者は自発的な意志に基づいて「タイマン」ではなく「一方的」に「ヤキ」を入れられることを選択した、というストーリーが出来上がる。
選択肢を実質的に奪っておいて「いや、あいつが勝手にやったことだから」と言い訳をかますこのあまりにもフェアではないこのやり方、わりと社会の中でも見覚えがあるのではないだろうか。足立区のガキでさえ使っている幼稚な手法だが、いい歳したジジイが得意気にこの論法で知ったふうな顔をしながら時事語りをしていたりするのはよく見る。そして見るたびに嫌悪感を覚えるし、それこそヤキを入れてやりたくなる。
ヤキも散々入れられたものだ。僕の時はどちらかというと「気合いを入れてやる」というフレーズが用いられることが多かったように思う。「ヤキを入れる」という言葉にはまだ「私があなたに暴力をふるいます」という、どちらが加害者でどちらが被害者なのか明瞭でさっぱりしている感がある。正々堂々としているのだ。
だが「気合いを入れてやる」という言葉はどうであろうか。これは卑怯である。まるで被害者であるこちらが気合いが入っていないから仕方なしに気合いを入れてあげている、みたいな一種の親切心じみたものさえ醸し出させている。気合いを入れられているこちらは被害者ではなく、むしろ相手にそんな手間をかけさせてしまっている加害者、とでも言わんばかりだ。思い返すとたしかに、先輩方が僕に「気合いを入れる」際にはひどく気だるそうな雰囲気を発散させながらタバコの火を腕に押し付けたりしていたものだ。そんなにダルそうにするならやんなきゃいいのに、とは思うがそんなことを言えるはずもない。僕はただ呻いて耐えるばかりだ。そして根性焼きが終われば「気合いを入れてやった俺に感謝しろ」みたいなことを言い出していたし、実際に僕は腕を押さえて半べそをかきながら「ありがとうございましたっ…」とか言っていたものだ。それを聞いて先輩方は満足気な表情を浮かべていた。そこに罪悪感は微塵も感じられなかった。本当に感じていなかったのだろう。彼の認識では彼は「加害者」などではなく、親切心で「気合いを入れてあげた」だけなのだから。
こういう言い換えの手法はどちらかと言えば偉い立場の政治家とかが庶民をいじめたい時などに使われるものだというイメージがあるのだが、実は足立区のヤンキーでさえも使ってる普遍的でちんけなものなのだ。自分という人間をそうやって姑息に糊塗しなければならない、という自覚があってやっている場合はまだ救いようはある。だが大抵の場合は自覚なしにやっている。これはもう救いようがない。「○○を守りたい!!」なんてカッコいいことを主張しながら、主張している中身をよく見るとそいつは○○を守るよりもただ○○以外の✕✕を排除し傷つけたいだけ、✕✕を差別するための方便として○○を利用してるだけ、みたいなヤツはけっこう見かけるのではないかと思う。
気合いにしてもヤキにしても、入れられる側としてはたまったもんじゃない。もうさすがにだいぶ薄くなったが根性焼きの跡って消えないし、なによりめちゃくちゃ痛い。痛みに耐えかねて転げ回る僕を見て先輩方は指を指して爆笑していたが、彼らは根性焼きの痛みを知らない。彼らの腕はまっさらで綺麗なものだった。先輩方は根性焼きなどされたことがないのだ。それがどれだけ痛いか知らない。だから彼らは笑えるし、感謝をしろと強要までできるのだ。
「気合いを入れる」人たちは一度たりとも気合いを入れられたことなどない。彼らは常に誰かに「気合いを入れる」だけなのだ。世間一般の感覚では、日常的に気合いを入れられまくっていた僕の方がどう考えても彼らよりも気合いに溢れているわけだから、むしろ僕が彼らに「気合い」を入れるべきなのではないかと思われるかもしれない。だが足立区というのは時空やなんかが歪んでいるので、まったく気合いが入ってないヤツが気合いの入りまくってるヤツに気合いを入れるのが日常なのだ。
こういう類の逆転現象っていうのも足立区外でも観測できることはある。どう見てもキツそうな仕事を額に汗して頑張ってる人を、どう見ても立ち回りの良さと要領だけで生きてる頑張ってないヤツが涼しげな顔をして見下していたりする。そういう光景を目にするたびに僕は
「一方的にやられるかタイマンかどっちがいい。ヤキ入れるから手を出して」
と言いたくなってしまう。彼らはまるで自分が特別な存在であるかのようにふんぞり返って満足しているがなんてことはない。その生態は足立区のヤンキーとなんら変わることのない、凡庸で低俗な醜いものである。
こうして考えてみると足立区はだんだん拡がっていっているのではないか、そんな感覚に襲われる。もう日本全国すべてが足立区となったと言っていいかもしれない。足立区文化は日本列島を覆い尽くしつつある。
どのような形にせよ、力でもって誰かを抑えつけようとする営みには類型がある。僕が子どもの頃に経験したものはすべて目に見える暴力という形を伴っていたからそれは至極わかりやすいものだった。暴力という形ではないものに関しては目に見えない分わかりにくいが、よく見ていけば底に流れているものはどれも似通っている。力の有無がそのまま人間の上下関係を決めるような野蛮な行為から身を置くことも難しくはない。
良識がある人なら力づくで誰かを抑圧することなど避けるものだとは思うが、もはや良識などと言っても鼻で笑われるだけの概念に過ぎなくなってしまっている。足立区化というのはそういうことなのだ。
誰かつらい立場にある人を見て同情し共感すること、それすらも偽善だなんだと嗤われ忌避されることさえある。力の無いものは踏みつけていいし同情にも共感にも値しない、その価値観は僕が少年時代に経験した足立区そのものだ。その地獄の中で踏みつけられなが誰にも同情も共感もされず生きる、それがどういうことなのか。僕は身をもって知っている。未だにその痕は腕に残っている。
冒頭に紹介したニュースには「これだから足立区はwww」のような、嘲笑をする人がたくさんいた。
その嘲笑はやがて、いやもうすでに自分に返ってきている。
暴力は水と同じだ。水が高いところから低いところに流れるように、暴力は常に力のある者から力のない者に及ぶ。それに抗うことを知らない者は、見下す対象を見つけては「www」をたくさんつけては嘲笑をはじめる。その行為そのものが、自分が今嘲笑っている足立区と同化している何よりの証拠だと言うのにそこに想いが及ぶこともない。
根性焼きをされた女の子の腕の痕はいつまでも消えない。そして腕だけでなく心にもいつまでも消えない痕は残る。
逮捕された女の子はどうなのだろうか。自分のした行為の意味がわかる時はくるのだろうか。タバコの火を押し付けていたときに自分が何を考えどんな表情をしていたのか、そんな自分を客観的に見てどう思うか、いろんなことを思い返して考えなくてはいけない。
これは被疑者の少女たちだけに課されていることではないと思っている。誰もがこの子たちと無関係ではない。もはやどこもかしこも足立区で、そこに暮らす誰もが足立区民なのだ。
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