わたしは誰?
もういっそいなくなっちゃいたいな。
そんなことをときおり考える。考えるといってもきちんと真剣に想いをめぐらせるわけでもない。5分後にはそんな考えを抱いていたことすら忘れてしまい、目の前の瑣末な日常に紛れてしまうのが常だ。でも時々は、そんな失踪願望のようなものを抱いてしまうことには間違いがない。
きっと誰もが同じように、ふとした時に「いなくなっちゃいたい」なんてことは考えるものなのだと思う。そして僕と同じようにすぐに忘れてしまうものなのだと思う。
どこか知らない土地で名前も過去も今まで自分を縛ってきたしがらみもすべて捨てて心機一転人生をやり直す。なんだか魅力的な考えに思える。でも、ちょっとした夢想として弄ぶことはあっても実行に移す人はほとんどいない。実際にやればやったでいろんな苦労が立ち塞がってくるのは目に見えているし、そう簡単にできることでもないのは誰もが理解している。
とはいえ、ときおり本当に失踪をしてしまう人というのもいる。日本では年間だいたい80000件前後の失踪届が出されている。80000というとすごい人数に思えるが、そのほとんどは半月以内に発見される。本当に失踪をしてしまう人はごくごくわずかしかいない。言い換えると、ごくわずかとはいえ本当に失踪をしてしまう人もいる。裁判傍聴に通っていると、そのごくわずかの人に出会えることがある。
「黙秘します」
裁判の冒頭からそのおばあちゃんは黙秘を繰り返していた。スーパーでの万引き裁判である。事件そのものに関しては犯行を素直に認めていた。彼女が黙秘をしていたのは人定事項、自分の名前や生い立ちなどの事柄についてだった。
おばあちゃんは身許のわかる書類、免許証や保険証の類はまったく所持していなかった。万引きで捕まってから連れていかれた警察署でも、犯行については認めながらも自分の名前や身許は完全黙秘を貫いていた。
その後、警察は指紋などの情報からおばあちゃんの人定事項を突き止めた。弟や妹、元夫などの親族と思われる数人も割り出した。おばあちゃんはその親族だちによって十数年前に失踪届が出されていたが発見されないまま7年が経ち、死亡宣告が為されていた。
警察から連絡を受けた弟はおばあちゃんを見て「たしかに自分の姉です」と供述した。他の親族たちも同様の供述をしている。だが当のおばあちゃんはその弟のことも他の親族のことも「知らない人です」の一点張り、頑なに自分が誰であるかは答えなかった。
書類の上では死んだことになっている人、この社会に存在しないことになっている人を司法がどう裁くのか、非常に興味深い裁判ではあったが残念なことに第一回公判しか傍聴ができなかった。
戸籍もなく身分証もなく、いない人間として生きていた十数年間。それがどういうものであったのか。正直、想像さえできない。最終的にはお金に困って万引きをしているわけだからそれは大変なものだったのだとは思う。だが、そんな思いをしてもおばあちゃんは失踪した。失踪し続けることを選んだ。
その男は覚せい剤の売人だった。交番の近くをうろついていたので警察官が職務質問をすると、持っていた荷物の中から大量の覚せい剤が見つかり現行犯逮捕となった。
警察の取り調べで男は「ホンダリュウ」と名乗っていた。「ホンダリュウ」名義の書類も所持していた。だが、男は「ホンダリュウ」の生年月日を答えることも、その名前を漢字で書くこともできなかった。不審に思った警察官が問い詰めると男は「ホンダリュウ」ではないことを認め、「ホンダリュウ」名義のものはすべて「クスリの仕入れ先の外人に貰った」と話した。
ではこの「ホンダリュウ」は誰なのか?
男は自分の名前も生年月日もすべて「覚えていない」、覚えているのは「昔、新宿に住んでいたことがある」という情報だけ。そんな状態で「7,8年前くらいから売人をしていた」ということだ。
その後、警察の捜査で男の父親を名乗る人物が浮上する。彼は「たしかに息子です。間違いありません」と話しているが、当の「ホンダリュウ」はその「父親」については「心当たりがありません」ということだ。
この男はいったい誰なのだろう。書類だけ存在している「ホンダリュウ」とは誰なのだろう。そして「父親」を名乗る人物は本当に父親なのだろうか…? もしも父親であるとして、男はなぜ息子であることを否定するのだろう。謎は尽きない。男は裁判が終わってから自分の今後の身の振り方を弁護士に相談するそうだ。
紹介した2つの裁判では、ほとんど犯行の話はしていなかった。ほとんどの時間は「あなたは誰なのか」を突き止めるために使われ、そしてその時間は無為に空費された。
自分が自分であることをやめる。そんな状況でも生きるということ。それはきっと「第二の人生」なんて甘い言葉で表現されるものではない。壮絶の一言に尽きるものだろう。でも、それを選択した人もいる。選択せざるを得なかったのかもしれない。彼らについて考えていると、やはり行きつくところは1つだ。結局、彼らは誰なのか? そこを突きつめていくと、今度は違う方向に思考が向かっていく。
自分は一体、誰なのか?
自分を自分たらしめるものは一体、何なのか?
僕が裁判の傍聴に通っているのも、この問いかけの答えを見つけるためなのかもしれない。最近はそんなことを思ったりしている。
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