IQが高い人たち、低い人たち

ここ最近はテレビでもネットでもニュースを見ないようになった。単純に疲れてるから見ないというのもあるが、それ以上にメンタル面での理由の方が大きい。海の向こう、アメリカに関するニュースが見ててしんどくなるのだ。アメリカの何がしんどいのか、言うまでもなくトランプとイーロンマスクがしんどい。2人の言動はもう理解できない(したくもない)ほどに酷いものだし、2人の姿を目にするだけでげんなりしてしまう。そういうわけでだんだんとニュースを見るのを避けるようになってしまった。
とはいえ、スマホを見れば否が応でもニュースの見出しくらいは飛びこんできてしまうし、テレビをつければ報道番組をやっていることもある。完全にシャットアウトすることはなかなかできない。
その日もなんの気無しにテレビをつけたのだが、ちょうど折り悪く問題の2人が映っていた。それはイーロンマスクが子どもを連れてトランプと何やらじゃれていた場面だったのだが、トランプはそのイーロンマスクの子どもに向かって「この子はIQが高くていい子だ」みたいなことを告げていた。子どもはキョトンとした顔でその言葉を受け流していた。IQが高い、それはトランプにとっての褒め言葉であり賛辞だったのだろう。別に他意はなかったはずだ。だが、一国の大統領が子どもを褒める時の表現として「IQが高い」なんて言葉を用いるその事実は私の目には惨事と映った。


IQが高いか低いか。
2025年ともなった現代において、この概念を用いて何かを語る人のほぼ全員が差別主義者だと思っている。少し前にも国別のIQみたいな表を示して、やれ日本人が高いのアフリカ諸国が低いのとやっていた残念な方をネット上で見たことがある。ネット上だけじゃない。橘玲という「作家」がそんな内容のことを「不都合な真実」などとまとめて本を出版したりしている。黒人はIQがどうのこうの、なんて書いていた。私はこの人を作家とは認めていないのでカッコ付きの「作家」として書くが、彼の本は書店でもけっこう平積みで置かれていたりする。その光景を見るたびに出版業界も末期的だな、と思ったりしている。
IQの方に話を戻すが、IQなんてのは民族別や国別で比べて使うような物差しではない。そしてその数字の高低が人の優劣に繋がるものでもない。
そもそもIQテストというのは20世紀初頭にフランスで考案されたものである。小学校において授業についていけない子ども、支援が必要な子どもを同定するための客観的方法として作られた。その内容は日常的に出会う簡単な問題を組み合わせて論理的思考能力を検査するものだ。このテストはあくまで支援が必要な子どもを見つけだすための方法であり、考案された当初からこれが子どものレッテル貼りに用いられることは極度に警戒されてきた。
しかしこのIQテストがアメリカに渡るとすぐに、フランス当局が警戒していた「レッテル貼り」に利用されることとなった。具体的には、新移民にこのテストを受けさせたのだ。用いられたテストは図ばかりで英語がわからなくても解答できるようにはなっていたが、アメリカの生活に馴染んでいないと問題の意味さえ汲み取れないような問いが多かったという。結果はもちろん惨憺たるものだった。そのテスト結果は人種差別的な主張に裏付けを与え移民排斥を正当化するための根拠としても用いられた。
先ほども書いたが、これは20世紀はじめの出来事である。書くまでもないが、今はもう21世紀である。IQなんて使われている言語、習慣、その他によってその結果は簡単に変わる。ほとんど同じような属性の集団に受けさせて、その集団の中で極端に低い点数の子どもがいたら支援が必要だと判断する、IQテストの使い方はこのようなものだ。低い点数を出した子にしたって、点数が低いから劣っているというわけでもない。その子が外国にルーツがあって今いる場所に馴染んでいないだけかもしれない。それはそれで支援が必要なわけだが、決してその子が劣っているわけでもない。もしかしたら何かしらの障害を抱えているのかもしれない。支援は必要だがもちろん障害の有無は優劣には直結しない。他にも低い点数を出す理由なんていくらでもある。IQテストは優劣をつけるためのテストではないのだ。
私はこんなのは21世紀を生きる市民としての常識だと思っていたが、今だに20世紀初頭の価値観でIQを捉えている人がいることに驚いている。しかもそれが世界一の大国の大統領である。ニュースを見るたびにげんなりするのも無理はない。
私は個人的にトランプが大嫌いなのでトランプを槍玉に上げてはいるが、前のバイデンにしたって同じようにIQだったり「知能指数」みたいなものにこだわる言動はあった。そうして能力主義に傾倒した鼻もちならない傲慢さが選挙での敗北を招いた、とサンデル教授は分析している。


振り返ってみると、日本にも同じように化石じみた価値観の人は多くいる。先ほど挙げた橘玲もそうだし、他者のことをすぐに「境界知能」だと決めつける人間も存在している。誰かを罵倒するためのフレーズとして「境界知能」という単語を使っている堀江貴文なんて人間がなぜ今だにメディアで重宝されているのかはまったくわからないが、彼らが薄ら笑いを浮かべながら発する言葉はすべて間違っているので一切耳を貸すべきではない。
IQという単語だと露骨すぎるという意識はあるのだろうか、気の利いた人間は「地頭」なんて単語を用いたりするがこれにしたって同じ理屈で唾棄されるべきものである。IQと比してその定義が曖昧なだけにより一層たちが悪いと言えるかもしれない。この単語にも「とにかく人に優劣をつけたい」という仄暗い願望が透けて見えている。
「IQが20違う相手とは会話が成り立たない」なんてのはネット上で時に目にする言い回しである。ここには何の論拠も存在しない。ただの偏見であり思いこみでしかない。会話が成立しない相手がいるとするならそれはIQの違いが原因なのではない。互いの知識量や暮らしている文化、興味関心を抱く分野が違いすぎるから成り立たないだけだ。たとえば東京生まれ東京育ち、東京の大学を出て東京の家電メーカーに就職した40代男性がいたとする。彼をいきなり秋田県の農協の飲み会に放りこんだとして会話が成立するだろうか。するはずがない。それが別にIQに由来するものでないことは明白だ。どちらが上でどちらが下、という話じゃない。単純に住んでる世界が違うのだ。


「MENSA」なる組織(?)があるということは前から知っていた。IQが140とかそれくらいの者だけが入会できるとかいう、あれだ。たしかアイドルかなんかの女性がここに入った、とかいうので少し前に話題になっていた気がする。
この文章の文脈的にわかると思うが、私はこの組織が嫌いだし、ここに入会したという女性も嫌いだ。嫌い、というか軽蔑をしている。IQテストの成績でもって自分をなにかすごい人だと思わせようとするその在り方が自分とは相容れないものだ。
ずいぶん昔の話だが、このMENSAに入会をしようとした男性のブログを読んだことがある。彼は入会のテストで入会基準に届かず入会は叶わなかった。しかし彼は諦めなかった。テストの傾向と対策を調べ、練習問題に取り組むなど頑張って勉強したのだ。その結果、彼は2度目のテストで見事に合格、MENSAへの入会を果たした。努力の結果、彼は30以上もIQを上げることに成功したのだ。
このエピソードの真偽はわからない。わからない上で、もし本当だとしたら「IQってなに?」という疑問にぶつかるのではないかと思う。勉強、というか練習で上がる数値をもって人間に序列を付けることに意味はあるのだろうか。そんなのはあるわけがない。IQなんて所詮それくらいのものでしかない。そんなもので入会基準を定めて「入ってるメンバーはすごい」みたいなことを喧伝している組織も、そんなのに入って喜んでいるアイドルも、ともに軽蔑に値するという私の評価は間違っていないはずだ。


私は自分のIQを知らない。小さい頃に測ったことがあるのかどうかも記憶がないのでわからない。
多分、極端に高くもないし低くもないのだろう。もしものすごくIQが高くてもそれをもって自慢しようとは思わないし、逆にとても低い数値だとしても別に構わない。私にとってIQなんて心の底からどうでもいいものなのだ。
とはいえ、IQには便利な一面もある。褒めるにせよ貶すにせよ、IQ(もしくはそれに類する言葉)という概念を用いて何かを語っている人の言葉はすべて無視していい、というある種のリトマス試験紙としては使えるのだ。というか、もうそれくらいしか使い道がない。
今後4年間、海の向こうで権勢を振るう連中。そいつらに乗じて自分の差別的な思想が正当化されたと思いこむ連中。そんな人間たちがこれからどんどん跳梁跋扈することだろう。それはいくらテレビやネットを見ないようにしていても無視をしたくても目に入ってきてしまう。見る見ないという話だけでなく、具体的に生活を脅かしてくる。だが、彼らに取り込まれて自分もIQがどうのと愚かしい駄論を打つようにだけはなりたくない、と自分を戒めるばかりである。
テレビ画面を見ればトランプとイーロンマスクが誰かの生活を、人生を、尊厳を、現在進行系で壊している様が放映されている。それはあまりにも醜い姿だった。彼らのIQがいくつなのかは知らないし知ろうとも思わない。その数字がいくつであれ、彼らの所業は決して許されるものではない。

そして私はリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。やっぱり最近のニュースは精神衛生上あまりよろしくないようだ。


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