ダメな人たちの祭典

今年も差し迫ってきて街を歩いているとクリスマスな感じのイルミネーションなどが目立つようになってきた。
ムカつくシーズンの到来である。
断っておくが私の抱いているムカつきは、私が世のありとあらゆる女性から忌み嫌われ一人ぼっちな男だから周りのカップルを見てひがんでいる、みたいなそういうものではない。決してない。断じてない。「お前…泣いてるのか!?」などと問い詰めないでいただきたい。私がムカついているのはそんなことじゃない。
ずいぶん前から見かける表記、「Christmas」と書けばいいところを「Xmas」と書くあれにムカついているのだ。
「Christmas」という言葉は古英語の「chrieste maesse」に由来する。意味するところはもちろん「キリストのミサ」である。その「Christ」の部分を変に気取ってバツにしちゃったらどうなるか、バツな人々、つまりダメな人たちの祭典みたいな感じになっちゃうじゃんかと私は昔から憤っていた。
だがふと思った。ダメな人たちの祭典、めっちゃ楽しそうじゃね? そう思ってしまったのだ。


クリスマスはキリスト教のお祭りである。ということで聖書を開いてみた。そもそもクリスマスとはなんぞや、という原点から考えてみようという試みである。
日本では聖書などそう馴染みのある本ではない。「そうだ、教養として聖書を読んでみよう」と新約聖書を手にとってみたことがある人はたくさんいると思うが、大抵の人は最初のページで脱落したことだと思う。新約聖書のド頭、マタイによる福音書1章1節〜17節まではイエスの系図がダラダラ書き連ねてあるのだ。本意ではないがコピペしてみよう。もちろん読み飛ばしていただいて構わない。

1アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
2アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、 3ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、 4アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、 5サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、 6エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、 7ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、 8アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、 9ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、 10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、 11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、 13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、 14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、 15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、 16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

冒頭からえらいことになっている。一体誰がこんなのを読むというのだろうか。
でも頑張って読んでみる。実はここもちゃんと読むと面白い箇所だったりするのだ。このカタカナの羅列の中には4人の女性が登場している。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻だ。
イエスの系図なんだからイメージ的にはすごく高貴な方っぽい感じはする。でもそんなことはない。
タマルは遊女のふりをして義理の父と関係を持ち双子を産んだ女性だ。ラハブとルツは当時のイスラエルの民が忌み嫌っていた異邦人だし、ウリヤの妻(バテシバ)はウリヤが戦場に出かけていて留守にしている間にダビデと姦通して子どもを宿した。いずれもユダヤ教では「罪人」とされる人たちだ。
自分の系図を載せるという行為をやって炎上していたアホなボンボン議員がいたが、マタイに載っている系図は信千代のそれとは意味合いがまったく違う。この系図が語りかけること、それは生まれを誇ろうなんて下衆いものではない。むしろ逆だ。イエスという人物が、時代の流れに翻弄され悲しい運命を歩んだ人たちの系譜に連なって誕生した、ということが書かれている。
端的に言ってしまえば、クリスマスで祝われているイエスの誕生という出来事はスタート以前から「ダメな人たちの祭典」の様相を帯びているのだ。
系図を読み飛ばすとすぐにイエスが産まれ、そしてマタイ2章に進むと今度は「占星術の学者」なる3人が「東方」からイエスの誕生を祝うためにやってくる。
「占星術の学者」、現代を生きる私たちからすると如何にも怪しそうな人たちだ。それは当時でも同じで、彼らはめちゃくちゃ否定的に捉えられていた。しかも「東方」からやってきている。この時代に「東方」と言えばやべえ場所の象徴みたいに思われていて、ろくな物もないしろくなやつもいないとされていた。マタイの描くイエスの誕生って、主にバツでありダメな連中しか出てこないのだ。


次はマルコをとばしてルカによる福音書の降誕物語を読んでみる。マルコによる福音書にはイエス降誕の話は書かれていない。
ルカで描かれている降誕物語はマリアの受胎告知やら飼い葉桶云々やら、有名な絵になっている印象的な場面が多い。
そのへんも華麗に読み飛ばして羊飼いたちに救い主の降誕が告げられた場面だけ見ていこう。なぜはじめにイエス降誕を知らされたのが「羊飼い」たちだったのか。当時の「羊飼い」というのは当時の律法社会では卑しい職業と見なされ否定的な目で蔑まれていた人たちだった。社会の中でもっとも底辺に置かれていた羊飼いたちに、一番はじめに降誕を告げられたということをルカは強調して書いている。そのような人たちだったからこそ、降誕の知らせを受け取ることができた、そんな読み方だってできる。やっぱりルカでもクリスマスはダメだとされる人たちがメインで描かれている。


ルカとマルコの描く降誕物語は、ストーリーも描き方も異なっているが双方ともにダメな人たちの物語として描かれている。
救い主とされるイエスは貧しく粗末な環境で産まれた。そして、その誕生を祝おうとしたのは同じように貧しく弱く疎外され蔑まれていた人たちであった。ルカもマルコもそう語っている。
クリスマスというのは、この世の中で小さくされた者たちに語られた福音なのだ。壊されて奪われて絶望の只中にいた人たちが再び生きはじめる、そういう物語だ。誰かを劣った者だと決めつけて貶め差別し、そうやって小さな自尊心を満たして束の間の満足を得る、そんな者たちに向けて語られているものではない。そう考えるとその表記は「Christmas」でなく「Xmas」でもいいように思えてくる。


キリスト教というのは価値観を逆転させる教えだ。
とりあえず目についたところだけ挙げてみる。
「あなたがたの中で、最も小さな者こそ最も偉い者である(ルカ9.48)」
「私の兄弟である、この最も小さな者の1人にしたのは私にしてくれたことなのである(マタイ25.40)」
「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう(第2コリント12.9)」
もっと探せば際限なく出てくる。私がすごく尊敬していて影響を受けている本田哲郎神父がこんなことを書いていた。「弱い立場に立たされている者の感性を持ってこそ福音を正しく捉えることができる」
聖書を読む時にもっとも大切なのは視座だ。「小さくされた者」の視座に立たなければ聖書は読めない。
一旦聖書を閉じてSNSをのぞいてみる。そこには経済的成功が人生の目的であるかのように思いこみ、それに失敗した人たちを怠け者だなんだと高みから見下し貶める言論が飛び交っている。たとえ倫理的に問題があっても人を出し抜いて金を稼げたら「勝ち組」であり「成功」、そんな価値観が蔓延している。別に豊かさは成功ではないし貧しさは失敗ではないと思うのだが、そんなことをおずおずと言ってみても「ひがんでるだけwww」「嫉妬乙www」とかwだらけの短文で「論破」されるだけだ。
ああ、すげえ窮屈だ。そしてすげえつまんねえ。
人生って本当はもっと自由で豊かで面白いものなはずだ。Christmas、いや「Xmas」というイベントは、そんなあるべきだった人生に想いを馳せるお祭りであってもいい。
ピカピカした街並みを歩くのではなく、薄暗く淀んだ路地裏に佇む。その方がより一層「Xmas」を体験できる、そんな気さえする。


ということで告知です。
12月24日、そう、「Xmas」ですね。
ダメな人たちの祭典をします。
その日、私はあろうことか午前中に健康診断の予約を入れているので、もはや昼から飲酒が可能なのです。つまり昼から信濃路に行けるのです。
ということで、12月24日、鶯谷は信濃路にて昼から「ダメな人たちの祭典」を開催します。
思いっきりド平日の昼間です。ダメな人しか参加できないでしょう。これはもちろん誰も来ないことを前提とした告知ですが「我こそはダメな人だ!」と胸を張って言える方は来ていただけたら、と思っている。あ、基本的には誰も誘わないつもりですが、私が「あなたはとてもだめな人だ!」と太鼓判を押す人に関してはこちらから声をかけることもあり得ますので気を悪くするでしょうけど諦めてください。よろしくお願いします。

そして乞食です。お金ください。優しいサンタの皆さん、よろしくお願いします。
ちなみに「サンタクロース」の元ネタとなった聖ニコラウスという人は貧しい人、巡礼、旅人、独身などなどの守護聖人らしいです。あと「泥棒」や「人を殺した者」の守護者だそうです。守護者とか守護聖人とかはよくわかんないけど…アーメン。

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