靴を舐める

「貯水槽」という単語を聞いて人は何を思い浮かべるだろうか。まあおそらくは「イオン」とか「ヤクザ」とか、そういう物騒なワードを連想される方が多いのではないかと思う。普通に生活していれば貯水槽の中を見る機会などまずないだろうし、発見されたら困るものを隠すにはいい場所なのだ。
そんな貯水槽だが時には開けることもある。集合住宅で生活していれば「貯水槽清掃のために〇〇時〜✕✕時まで断水します」みたいなお知らせを見たことがあるはずだ。たまにではあるが掃除もするし、その時には当然中を誰かが見ることもある。先程は発見されたら困るものを隠すにはいい場所だと書いたが、いずれ露見してしまっても大丈夫という条件でなければ貯水槽を隠し場所としては使ってはいけない。いつまでも露見しないことを願うのならばそれはやはり山奥だとか海底だとかを利用するのがベストだと思われる。

なんで突然に貯水槽話を綴っているかと言うと、貯水槽の掃除というのを僕はやっていたことがあるからだ。学生の時のバイトで清掃の仕事をしていたのだが、何回か貯水槽の現場があった。
貯水槽は文字通り水を貯めとくところである。そこに貯めといた水は飲料水になったり生活のために用いられる。ということはつまり、すごくきれいにしておく必要があるということだ。中で何かが腐乱しているなどはもちろん論外だし、貯水槽の中に入って作業をする人間も清潔さを求められる。
貯水槽に入っていく前、作業員である我々はみな作業服を着替えさせられたものだ。普段使いしている作業着とは別にものすごくきれいな貯水槽清掃用の作業着を支給されるのだ。そして作業靴も履き替える。これも作業着同様、貯水槽清掃用のものだ。着替えるのもその辺で着替えるわけじゃない。着替えてから外の埃や何かを貯水槽内に持ち込まないように、貯水槽近くでビニールを敷いたりなんなりいろいろとやるのだ。

さて、僕の務めていた清掃会社というのは極度にブラックな社風を特徴としていた。ワンマン社長がやたらと権勢を振るうのだ。暴言暴力は当たり前、社長に少しでも反抗的な態度を取ればすぐにクビ。
他のバイトと比べて不自然に高い時給に惹かれて僕はこの会社に入ってしまったが、その時給の裏にある事情にはすぐに気がついた。ワンマン社長のせいで人が入ってきてもことごとくすぐに辞めたりクビになってしまうのだ。なんとか人材(奴隷)を確保したい、そのための方策として時給ばかりが高くなっていったのだろう。かくいう僕もたしか3ヶ月ともたずに逃亡した。たしか宮部くんとかいったか、360度どの角度から見てもキモいデブが社長のお気に入りで、僕が辞めたあともいつまでも辞めずに奴隷として働いていたと聞く。
まあ宮部なんかはさっさと死んだらいいとして貯水槽の話に戻ろう。このワンマン社長、普段は事務所でふんぞり返っていて現場に出てくることはないのだが、貯水槽清掃のときは何故か張り切って現場に現れるのだ。宮部はそんな社長にペコペコしておべっかを使っているが、他の作業員たちの表情はみなおしなべて暗い。
なるべく社長の方を見ないようにしてコソコソと貯水槽用作業着に着替える。運悪く社長に捕まったやつが意味もなく怒鳴りつけられたり腹パンされたりしているのは視界に入っているが、もちろん見て見ぬふりである。
事なかれ。
全員がそれだけを願っていた。

そうこうしているうちに全員が着替えを終えた。そしていざ、作業に入ろうという時にキチガイ社長が発狂した。
「全員、そこに並べ!!」
いきなりの整列命令である。意味はまったくわからないが従う他はない。のそのそと1列に並んだ我々奴隷たちを前に社長が絶叫する。
「お前ら、貯水槽に入るってことの意味わかってんのか!!」
すごい大声である。すごい剣幕である。だが何を言わんとしているかはまったくわからない。
「おい、お前!! 言ってみろ!!」
指名された作業員は細かく震えながら必死に思案するがキチガイを満足させそうな答えが思いつかない様子で、ただ「あ、あ…」と口をモゴモゴさせるばかりだ。
「バカ野郎!!」
怒号とともにキチガイの右拳が哀れな作業員の顔面に炸裂する。その作業員は以前はガラス清掃専門の会社を経営していた方で、もう60歳くらいだったろうか、けっこういい歳の方である。キチガイの年齢も知らないが、そのおじいちゃんよりは明らかに10歳前後は年下だったはずだ。
おじいちゃんを殴りとばしたあとにキチガイの訓示がはじまった。その話の内容は順当なものだった。人の口に入る水を貯めてるところなんだから衛生面はすごく気をつけなくてはいけない、だから作業着だってこの日のためにクリーニングしたやつなんだ、うんぬん。
そんなことは今言われなくても知っていることだし、よしんば誰も知らなかったにせよそんなのは朝礼とかで言っとけよ何で今なんだよという話だし、ていうかこうして話を聞いてる間にもせっかくきれいな服に埃とか付くわけで「貯水槽に入るってことの意味」が一番わかってねえのはおめえだろうがよ、などとは思っていても言えない。絶対に言えない。言ったところで殴り倒されるのが関の山だ。ちなみにキチガイは年配の方には珍しく180センチを超えていて、やたらとガッシリした体格の人間である。

整列する奴隷たちの前を歩きながらキチガイは怒鳴り続ける。その時、僕たちの心は1つだった。
事なかれ。
願うのはやはりそれだけだ。さっさと嵐が過ぎ去ってくれること、さっさと貯水槽の掃除を終わらせて我が家に帰ること、それだけを望んでいた。
僕は心を無にしながら俯いて自分の足元だけを見ていた。歩いているキチガイの足元だけは見える。その足があろうことか、僕の前でピタリと止まった。
「おいお前っ!!」
この足の位置から鑑みるに、これは絶対に僕に向かって叫んでいる。ここで返答が遅れようものならキチガイは何をするかわからない。
「は、はい!!」
すぐさま僕は顔を上げ、美しい気をつけの姿勢で返事をした。せざるを得なかった。
「舐めろ」
「え?」
「俺の靴を舐めろって言ってんだよ!!」
キチガイは血走った目で僕を睨みつけている。完全に狂っている。なぜこんなヤバいキチガイが法治国家であるこの日本で野放しにされているのか、なぜこんなキチガイが社長を名乗って事業を営んでいるのか、意味がわからない。
「舐めても大丈夫なくらい靴だって清潔にしてんだよ!! お前はそれをわかってねえんだから身体で覚えろ!! 今すぐ覚えろ!! 早く舐めろ!!」
清潔だから舐めることができるとか、清潔でないから舐められない、とかそういう次元の話ではなく今あなたが言っているのは明確に人権侵害であってどうのこうの。いろんな思考が頭をグルグルする。だが目の前にいるキチガイを見てすぐにそんな考えを打ち消す。
どう見ても話が通じる相手ではない。
「え、あ、あの、いや…」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!!」
キチガイはいきなり僕の髪の毛を掴むやいなや、僕の顔面を地面に押し付けた。そして突然のことにパニックになる僕の顔に足を差し向けてきた。
「舐めろ。ほら、さっさと舐めろ!!」
もうやるしかない。屈辱、そんな言葉ではその時の感情は言い表わせない。「人に舐めさせた靴で貯水槽に入るのってダメなんじゃね?」とは少し思ったがそんなことを議論するような空気でもない。僕は舌を出し、キチガイの靴を舐めた。犬のように這いつくばりながら、キチガイの靴を舐めた。恐怖や恥辱、いろんな感情が入りまじった涙を流しながら、キチガイの靴を舐めた。


なんでこんな嫌な思い出を唐突に書き始めたかというと、頭の中の思い出さない方がいい記憶を入れとく箱をこじ開けたアホがいたからである。次の画像がそれである。


こいつには絶対に投票しない

トイレを素手で掃除する、一部の人間が嬉々としてやってるあの奇行の模様をツイッター上で見てしまったからだ。
トイレを素手で掃除させられること、靴を舐めさせられること、なんとなく似通ってるように思えないだろうか。僕はこの画像1枚ですっかりトラウマを喚起させられてしまった。このトイレ掃除に関しては批判している方たちのおっしゃる通りである。100%同意する。
謙虚さを学ぶ、だとかそんなことを言うがその魂胆は1つである。誰かの尊厳を踏みにじり屈伏させ服從させる。それだけが狙いだ。それは謙虚なんてものじゃない。ただ何も言えない人間を作ろうとしているだけだ。その営みがどれだけの痛みを与えるものなのか、僕は肌感覚で知っている。今思い出しても殺してやりたいほどの怒りが湧き出てくる。それをこともあろうに国会議員がやっている。この国が没落している理由もよくわかる。こんなもん、没落しないはずがない。

水道から出した水をポットに入れお茶を淹れる。
いつも当たり前にやってるこの行為の裏に、当たり前にあるはずの人間性を傷つけられトラウマを植え付けられている人がいるのかもしれない。そんなことを考えだしたら満足にお茶も飲めなくなってしまう。でも考えたい。考えないでは済まされない。そこにいるのはたしかに自分自身だからだ。あの日の自分はなぜあんな目に遭わなければならなかったのか。僕が惨めに靴を舐めさせられている時、キモデブ男の宮部は僕を見下し笑っていた。あの笑顔の醜さもきっと忘れない。
国会議員がトイレを素手で掃除し、その様子を当然のようにまるで良いことのように発信しているその光景はおぞましいものだ。いつかこんなことがなくなる日がくるのを願ってやまない。そんな日が来れば、あの日の記憶もしっかりと二度と思い出さない場所に封印されるはずだ。

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