
自担の夢の中で、夢を見ていた。
真っ暗闇に包まれた夢と現実の狭間で、ベッドの中に沈んでいく、という感覚に陥ることが多々ある。
私はいわゆる睡眠障害で、薬がないとほぼ100%眠ることができない。こんな体になってしまい、もう10年が過ぎた。パニック障害とかいうモンスターと共存しはじめたのもその頃だ。
どういうときに発作が起きやすいか、どう生きていくのが自分にとっての正解か、あの頃よりは幾分か理解できるようになったと思う。それでも、自分のことなのに何にも分からないときがある。私はきちんと生きているのだろうか。周りに、社会に、私を認識してもらえているだろうか。私は、私をきちんと認識できているだろうか、と。
そんな私だが、幼い頃は夢を見るのが一番楽しみだった。幼稚園も小学校も子どもながらに気を張っていて、疲れ果てた一日の終わりに、あたたかい母の腕の中で夢を見ているときだけ、私は私らしくいられたのだと思う。
だけど大人になったあるとき、夢を見ることさえ許されなくなってしまった。眠ることができなくなったからだ。寝付く瞬間、息ができなくなり、形は無いのに質量だけ馬鹿みたいに重い塊が全身にのしかかってくる。その苦しさにたまらず目を開き、あぁまた今日もたった一人で冷たく長い夜を過ごさなければならないのか、とため息をつく。そういう日が続いていた。もう長い間、自分の力で夢を見たことがない。私は、夢の見方を完全に忘れてしまっていた。
◇ ◇ ◇
あっという間に1月が行ってしまい、2月も半分逃げてしまった。ということはつまり、川島如恵留くんの活動休止から早くも2ヵ月半が経つということだ。そして2025年も、もう6分の1が終わろうというところである。
お休み直前、彼のここ数ヵ月の様子を見て感じていたことを書いたのがこのnoteだ。
この中で私は、「如恵留くんが休みたくなったら、絶対に受け止めるから安心して休んでほしい」「ただし、それを無条件に受け止めるためにオタク側にもトレーニングは必要になる」という旨を記していた。なんともタイムリーなことであったが、このちょうど10日後の12月2日に、如恵留くんから活動休止のお知らせがなされたのだった。
あの日のことを、私は一生忘れない。ほとんどのオタクのトラウマとなっている「○○からの大切なお知らせ」を自担の名前で見た、あの夜のことを。心臓がひんやりと凍り付き、口から飛び出してきそうになった、あの夜のことを。頭をガツンと殴られたような感覚とともに、とてつもない安堵と不安の感情が同時に押し寄せてきた、あの夜のことを。
そうした迎えた翌12月3日。自分で想像していたものより遙かに重苦しい気持ちが垂れ込んできた。それは、前日に枯れるほど流した涙からの水蒸気をたっぷりと含み、今にも雷雨を降らせるような雲の塊のようだった。
そもそもこの涙は、自分の寂しさよりも壊れてしまったであろう彼の心を想像したことに起因するものだ。自担が受けた傷、戦ってきた時間、乗り越えようとする姿、スポットライトの陰に隠れて震える身体……彼がこの決断を下すまで、どんな様子でどんな気持ちでどんな風に葛藤してきたのか、その日々を想像するだけで気が狂いそうだった。
私の心と体のキャパシティはすぐにいっぱいになり、外に溢れ出して止まらない。感情も涙も、とめどなく湧き上がってくる。
おかしいよ神様、何で如恵留くんがこんなに苦しまなくちゃいけないの?
彼には世界で一番幸せでいてほしいと、そう望んでいたのに。毎日毎日「今日も如恵留くんが幸せでありますように」とお願いしていたのに。一介ののえ担の小さな祈りなど、聞き入れてもらえなかったのだろうか。
やっぱり神などという概念は、心の弱い人間が作りだしたものに過ぎないのだと、頭の中でニーチェがニヒルに笑っていた。
2024年は、ずっとずっと怖くてたまらなかった。彼が今日もここに居てくれることを、必要以上に確認しつづける日々だったからこそ、「活動休止」という言葉は私にとって安堵に値するものだった。この選択が、おそらく今の状況においての最適解だと思っていたからだ。個人的な我儘だけれど、もはや病的になってしまっていた私にとっても同様だった。
しかしながらnoteで書いたとおり、これから私は長い長いトレーニングを遂行しなければいけいないことに、隠しきれない不安も抱いていた。
その不安の原因は、彼をしばらく見られない寂しさなどではなく、彼を心配しすぎるがあまり、あらぬ妄想によって心が蝕まれていく悪夢のような時間を過ごさなければならないことにあった。
極度の心配性で神経質で考え込みやすい私にとっては、それが一番乗り越えなくてはならない問題だった。あの地獄のような時間を、「如恵留くんのことが心配だから」という理由で過ごしたくはなかったが、こればかりはどうしようもない。私はしばらくの間、《如恵留くんのことが心配すぎて》眠ることができなくなってしまった。
最悪だ。地獄だ。起きているのに悪夢を見ているようだ。眠れない理由なんて、自分自身でありつづけろよな。《如恵留くんが理由の不眠》なんて、あぁもうほんとにさいていだ、わたしは。
◇ ◇ ◇
昨今、推し活市場が史上最大規模になったことで、猫も杓子も推し(という言葉をあまり使いたくないほど自担という言葉にこだわりがある面倒くさいオタクis私)を作れば生きがいができるかのような、推しがいる人は幸せであるかのような、推しがいる生活がまるでこの世の極楽であるかのような、そういった言葉を発している。
しかし、推しがいる人は本当に幸せなのだろうか。私はそうは思わない。特に生きている人間が対象の推し活は。たぶん、メディアが考えるほど推し活は楽しくなんかない。しんどいことの方が多い。それはもう、恋と同じだ。
恋愛というものも、古来一つのコンテンツとして確立していて、創作はもちろん、世の中の商品やサービスも人の持つ恋愛感情に訴えかけるものが多数生み出されている。推し活ビジネスもその一環だ。
けれど個人的に、恋愛って正直そこまで楽しくはないなとも感じている。大体いつもいろんなことに頭を悩ませていてしんどい。「恋愛はコスパが悪い」なんて言われることにも納得である。
それでも感情というものがある限り、誰かを特別視して恋焦がれてしまうのが人間の性というものなのだろう(念のため、アロマンティックを否定している旨の発言ではない)。
推し活だって同じだ。ある日急に「好き」という感情が芽生え、目で追い始めて、気づいたらその人のことで頭がいっぱいになっている。実際に関係を構築しないで済むだけ、現実の恋愛よりも幾分か気軽かもしれない。けれど、実際に関係を構築できない分だけ、現実の恋愛よりも気持ちは重いかもしれない。そして推し活はお金がかかる分、恋愛なんて比じゃないほどコスパが悪い。
つまるところ「推しがいることが幸せ」という概念のほとんどはマーケティングの成果なのであって、実際はそんなに幸せではないことの方が多い。「恋愛は素敵なこと」というものと、構造自体はほぼ同じように見える。
事実、私は如恵留くんの調子が悪かったとき、何の幸せも感じなかった。ずっと頭が重くて、苦しかった。考えてみれば当たり前だが、好きな人の調子が悪くて何が幸せなんだろうと思う。生憎、私は彼を消費の対象として見られるような心を持ち合わせていない。
「消費の対象」。そういう言葉にしてみればキツいけれど、楽しく推し活したいのであれば、相手を「消費」の対象として割り切って見ることも時には必要だ。それができなければ、生きている人間を推すことの先に待っているのは、地獄である可能性が高い。その地獄とは、「執着」そして「依存」である。
これほど悩んでいるのに「たかだかアイドルのことで悩むなんてね」と笑われてしまうから周囲に相談はできないし、気持ちを押し殺して自分の生活と切り離さなければならない。推し活というのは、こういう葛藤とも付き合っていかなければならないのだ。
もし周りに「推しを作ってみたい」という人がいれば、少なくとも私は諸手を挙げておすすめすることはない。その人の性格にも寄るのだが。
でも辞められない。逃れられない。ずぶずぶと底なし沼に嵌って抜けられない。恋愛も推し活も、結局はコスパだなんだと理性的に考えられるものではない。もはやこれは、目の覚めない悪夢だ。
◇ ◇ ◇
さて、あれから2ヶ月。では、悪夢を見ていたあなたは、一体どれほど暗く廃人のような日々を過ごしてきたのですかと聞かれれば、私が一番意味不明なのだが、青空の下で毎日めちゃくちゃ楽しく過ごしている。
後回しになっていたことに着手し、好奇心の赴くままに好きなことをし、充実した日々を送っている。自分で自分が信じられない。じゃあ、あのグズグズウジウジとしたボヤきは何だったというのだろう。ウザすぎるだろ、私。
端的に言えば、如恵留くんのことを考える時間が、おそらく98%ぐらいは減ったのだ。言葉は難しいので誤解のないように申し添えると、ここでいう《考えない》ということと《想わない》ということは全く異なる。考えていないというのは、先述のようにあれやこれやと妄想に憑りつかれた日々を過ごしていない、ということだ。
神がいるかは分からないが、相変わらず毎朝お気に入りの写真立てに向かって、今日の如恵留くんが少しでも楽になっていますように、一口でも多くごはんが食べられていますように、一秒でも長く眠れていますように、など彼の心と体が昨日よりも良くなることを願っている。
いや、別に良くなってなくたっていい。一歩進んで二歩下がったっていい。歩みを止めてたっていい。下を向いてたっていい。如恵留くんが「生きてるって楽しい」と感じられる時間が、一日の中に一瞬でもあれば、それでいいのだ。
そんなふうに、如恵留くんが一生懸命自分と向き合っている間に、私もいろんなことに取り組んで健全に過ごしていようと思えたのは、他でもない上田竜也くんのInstagramの投稿のおかげだった。
見えない人の状態は、自分の中で推し量ることしかできない。人の心のことであれば尚のことである。つまり極度の心配性の人の中であればとんでもない重症になってしまう。私の頭の中のことだ。だからずっと、不安を拭い去ることができなかった。
けれどこの投稿のおかげで、如恵留くんが人と会える状態にはあること、自分が信頼できる人のSNSにだったら書かれても大丈夫なのだろうということが推測できた。それさえ分かればこっちのものとばかりに、信じられないくらい不安が薄れていった。少しは楽観的になれた。本当にいい男だよ上田竜也くん。ありがとう上田竜也くん。彼に幸多からんことを。
これだけだ。本当に、たったこれだけのことだった。それ以外何も分からないけれど、急に目の前の霧がなくなったのだ。この日から如恵留くんの心と自分の心を繋げるという愚行を辞められた。ちゃんと自担と自分を分離することができた。共感力といえば聞こえのいい、相手と自分を重ねて勝手にしんどくなる癖は、私が今世乗り越えるべき課題だと自覚している。そのトレーニングの初回としては十分な出来事だった。
自分がお休みすることでファンがどう思うか、どれほど悲しむか、言われるまでもなく分かってんだよなぁ。自分と重ねてしんどくなってほしいわけじゃないんだよなぁ。自分がしんどいときに、そんなことまで考えられないよなぁ。よーしよしよし、如恵留くんのためにも元気でいるぞ~~如恵留くんが「のえ担悲しませてるな。寂しい想いさせてるな」って気にする必要もないくらい、充実した日々を過ごすぞ~~!!!と、普段ネガティブなくせに自担のこととなったらポジティブになる私が帰ってきた。
だからもう、何も言うまいと思った。分かったような口も、メソメソした泣き言も、納得したフリの強がりも。如恵留くんが帰ってくるまでnoteも書かないつもりだったけれど、そこはやっぱり心の記録として残したくなるのが私という人間のようだ。
心が晴れてきたならば、あとはもう半歩ずつ前に進もうとしている如恵留くんのことを信じて、それを見守る自分の心を時に慰めて、日常の中で「楽しい」を見つけて過ごすだけだ。彼の笑顔を再び見られるその日まで。いや、そのあともずっと。
そりゃあ彼のいないグループ活動を見るのはしんどいよ。初めてのフィジカルCD手放しで喜べないよ。ツアー心から楽しめそうもないよ。YouTubeや冠番組も何となく観る気起きないよ。情報もそこまで追ってるわけじゃないよ。毎日どこか穴が空いてる気はするよ。悲しくならないわけじゃないよ。そりゃそうでしょ? だって好きな人見られないんだもん。好きな人の気配を感じられないんだもん。当たり前じゃん。
だけど、それとこれとは話は別なわけで。
生活がままならない理由が如恵留くんなのは嫌だし、眠れない理由が如恵留くんなのも嫌だし、気分が晴れない理由が如恵留くんなのも嫌だし、人生がつまんないと感じる理由が如恵留くんなのは一番嫌だ。
あなたに愛されるために必要なことが「僕が100%ではなく、僕以外に好きなものがある方がいい。」(『steady.』2022年4月号より)というのは、そのときの言葉から推測される意味とは違うかもしれないけど、この状況になったいま余計に心から頷ける。スズという人間が川島如恵留100%になるのは、どう考えても不健全がすぎる。身近な家族やパートナーであれば分かることなのに、推し活となるとどうも難しい。
たぶん目に見える関係を構築できないから不安定で、不安に駆られて、不健全になりがちで、不健全であることにも気づかなくて。相手に伝わらなくて済むから執着することが普通より簡単で、依存になりやすくて。だからこそ自律する力が何よりも必要なのだ。推し活ってやつは。
やっぱり如恵留くんが理由であることは、笑顔になれるようなことがいい。「如恵留くんがいないと生きていけない」じゃなくて、「如恵留くんがいると生きるのがもっと楽しい」がいい。
どうしてるか分かんないけど、如恵留くんも何か好きなことしているといいな。好きなこと学べてたらいいな。遊べてるといいな。遊んでても罪悪感抱いてないといいな。
どうせ同じように時が過ぎるなら、どうせ同じように何も分からないなら、分からないことに頭を悩ませるより、考えない方がいい。あとから振り返ったとき、もう「地獄の期間だった」とは思いたくない。「あの日々無くして、今はない。」って教えてくれた人たちがいるのだ。実際は悪夢のような日々かもしれないのに綺麗事を言うつもりもないけれど、たぶんそう生きるしか私に残された道はないのだろうと思う。私自身が過ごした日々は、私自身で正解にしていくしかない。
それでも、どうしても頭がモヤモヤするのなら、外に出て無理やり運動するに尽きる。うん、どっから見ても健康的だ。健康でいてね、健康でいようね、健やかに生きようねって約束してるもん。心も体も健康でいるよ。健康でいなくちゃ、あなたを愛することができないからね。
如恵留くんがアイドルとして過ごす夢のような時間の中では私も夢を見ていたいし、如恵留くんが現実と向き合っている時間の中では私も現実をしっかり生きていたい。それも一つの執着かもしれないけれど、少なくとも悪夢ではないことは確かだ。
愛の日に何ちゅうもん書いとんねんといった感じではあるけれど、この心持ちが今の私が持ちうる最大の愛の形なのだと思う。如恵留くん、ハッピーバレンタイン。今日も明日も明後日も大好きだよ。