Reco旅 -新居宿【まとめ】-
以前から行きたかった東海道53次・新居宿へ行ってきた。
随分前に、
「交通費サポで猪鼻坂と橋本砦の調査に行きます」
と言ったものの、サポが無かったので調査を忘れてた(苦笑)。
※過去記事:「最近の「橋本宿」関連記事のまとめ 」
https://note.com/sz2020/n/n87afd2987736
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Reco旅 -新居①新居-
https://note.com/sz2020/n/n69e24f768ae4
Reco旅 -新居②橋本-
https://note.com/sz2020/n/n827fa9f86601
Reco旅 -新居③中之郷-
https://note.com/sz2020/n/nbd3998b9a3e1
Reco旅 -新居④式内社-
https://note.com/sz2020/n/n53f1350f2750
Reco旅 -新居⑤応賀寺-
https://note.com/sz2020/n/n971ee2393c04
Reco旅 -新居⑥ソウルフード-
https://note.com/sz2020/n/ncc519a59f278
Reco旅 -新居⑦レポに出てくる地名-
https://note.com/sz2020/n/n16d22c672d44
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上の絵図のように新居の都市計画をした(北西の山麓に寺社、水路を定め、町屋を碁盤の目のように配置した)作事奉行は土居豊隆である。工事が完成すると、宝永5年(1708年)4月9日、諏訪神社に石灯籠と願文を奉納した。
江戸時代の地図と、今の地図を見比べると、ほぼ同じなので驚きますが、大きく違う点が2点あります。
①江戸時代は関所が東端で、関所より東は浜名湖。
(現在のJR新居町駅は湖底!)
②江戸時代は源太山がある。
(現在は切り崩されて台地状になっており、新居小学校がある。)
そうなのです!
源太山を切り崩して浜名湖を埋め立てたのです!
※源太山:源頼朝の上洛時、橋本宿に泊まった時、梶原平三景時の長男・梶原源太景季は、山の松の木に登り、敵が来ないか監視したという。その山を源太山(げんだやま。「源太ノ山」とも)、松の木を「源太物見の松」という。
※平次ヶ谷:次男・梶原平次景高は「平次ヶ谷」の「平治物見の松」に登って監視しました。「平治物見の松」が生えていた場所は、物見には適していたようで、太平洋戦争中に伐採されて空襲の見張り塔が建てられました。
源頼朝と梶原景時は橋本宿の長者屋敷に泊まり、従者たちは野宿。その範囲の東端が梶原景季が見張った源太山で、西端が梶原景高が見張った平次ヶ谷ということですが、平次ヶ谷は遠すぎる。高師山なら分かりますが。
橋本の君には何か渡すべき 源頼朝
只杣川のくれて過ぎばや 梶原景時
※「杣川(そまかわ)」:「杣山(そまやま)」で伐採した木を、いかだに組んで流す川。「杣川」という地名は当時はなく、この連歌から作られた新地名だという。
「くれて過ぎばや」は、「くれで過ぎばや」で「何もあげないで通り過ぎよう」と、「暮れて過ぎばや」で「日が暮れたのでさっさと通り過ぎよう」をかけています。実際は団扇と扇子をいただいたようで、応賀寺の宝物館で見られます。
https://note.com/sz2020/n/n971ee2393c04
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