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瀧山寺と源頼朝

藤原季範(額田冠者)┬藤原範忠(内匠頭)─┬藤原忠季
          ├藤原範信(上野介)   ├藤原清季
          ├藤原範雅           ├寛伝(式部僧都、額田僧都)
          ├藤原範綱                     └女子(足利義康室)
          ├藤原範智(大学助)
          ├長暹(粟田口法眼)
          ├千秋尼(上西門院女房)
          ├大進局(待賢門院女房)
          ├由良御前(源義朝室)─源頼朝
          ├祐範(三河法橋)
          └女子(源師経室)

尾張氏は、熱田神宮の大宮司職を藤原氏に譲り、千秋氏と称した。 
藤原季範は熱田大宮司となり、藤原範忠、藤原清季と継いだ。
源頼朝の伯父・長暹、叔父・祐範、従兄弟・寛伝は滝山寺の住職になった。
※長暹、祐範、寛伝は、天台宗の高僧・仏泉永救(ぶっせんえいぐ。?-1138)の弟子である。仏泉永救は、荒廃していた吉祥寺を物部氏の支援で再興し、瀧山寺と名づけた。
「沙門永救、檀那、物部朝臣、伴氏女」(本堂棟木)

『瀧山寺縁起』 に、寛伝は、源頼朝の菩提を弔うために、聖観音像、梵天像、帝釈天像を運慶と湛慶に造らせ、源頼朝と等身大の聖観音像の胎内に源頼朝の顎髪と歯を納めたと書かれている。
*瀧山寺の源頼朝と等身大の聖観音像の高さは174.4cm。
*「三河七御堂」普門寺(愛知県豊橋市雲谷町ナベ山下。住職は源頼朝の叔父と伝えられる化積)の「頼朝身丈(みたけ)不動」と呼ばれる源頼朝と等身大の不動明王像の高さは163.0cm。

元禄時代に彩色が施されていたので、運慶仏像とみなされていなかったが、文化庁の調査によって、頭部に紙袋が発見され、『瀧山寺縁起』の記述通り、運慶の仏像であろうと考えられるようになった。なお、『瀧山寺縁起』には仁王も運慶仏像とあるが、こちらは否定されている。

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【参考記事】
・戸澤剛「運慶作三尊像を滝山寺に誘った式部僧都寛伝
・『運慶仏発見物語』「昭和時代の運慶作品発見物語
・瀧山寺住職・山田亮盛「瀧山寺の文化財について
・【見仏入門】「No.40 愛知・滝山寺の仏像・見どころ

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