「姉川七本槍」中山是非之介
西郷氏が五本松城に入ると、その周囲に被官たちが屋敷を建てたという。
古地図の五本松城の横には家老・中山氏の居館(上の古地図には「中山是非之助ヤシキアト」(中山是非之介屋敷跡)とある)があった(現在も中山さんの豪邸がある)というが、五本松城こそ西郷氏が中山(西郷谷)に入る前に中山氏が築いた居城「中山城」だという。
『三河国二葉松』には「嵩山村古城 西郷孫四郎、奥山修理進、中山是非之助(西郷家之別)」とある。中山氏は、「中山城」から「嵩山村古城(市場城、月ヶ谷城、左京殿城)」に移ったようだ。今川氏に人質に出され、処刑された西郷孫四郎正好に替わって入城したのであろうか。
1.出自
(1)中山氏系図①
中山①兵庫介信次─②信房─③吉次(宗秋)─④是非之介政次(道半/道伴)
「西三河西郷氏」西郷信員の子・西郷信次は、中山(西郷谷)の中山城(五本松城)に住んで代官を務め、「西郷」から「中山」に改姓した。
「東三河西郷氏」西郷正勝が中山(西郷谷)に入り、中山③吉次(中山宗秋)は、天正8年(1580年)に中山氏居館(愛知県豊川市当古町清水尻の当古屋敷)に移った。(この中山吉次(宗秋)を中山氏初代として、中山是非之介を2代目とすることが多い。)
中山家の宗主は、徳川家康の命で、代々庄屋として「当古の渡し」(鎌倉街道の豊川の渡船場)の渡し舟の管理を行ったという。
以上、「中山氏系図」は、三河史上の謎とされる「三河西郷氏論争」(西三河西郷氏と東三河西郷氏の関係)に1つの解答を与えている。
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