【悲恋】杜若姫の恋慕塚
小野篁(802-853)の娘・杜若姫は、文徳天皇の女御であった。天安2年(858年)8月27日、文徳天皇が突然の病(通説では脳卒中であるが、藤原良房による暗殺説もある)で崩御されると、ショックを受け、泣いて暮らしていた。
生ける屍状態であったが、「六歌仙」「三十六歌仙」在原業平(在五中将)の導きで、和歌の道に生きがいを見つけることができた。
桓武天皇┬平城天皇─阿保親王─在原業平(825-880)
├嵯峨天皇─仁明天皇─文徳天皇(827-858)
└淳和天皇
小野篁─杜若姫(?-868)
東下りの在原業平を追った杜若姫は、八橋で在原業平に追いついた。
「ここで会ったら、都に戻りたくなってしまう」
と思った在原業平は、逢妻川の対岸から杜若姫に別れを告げ、東下りを続けた。
杜若姫は、しばらく八橋に滞在していたが、終に池に身を投げた。これは貞観10年(868年)5月15日のことである。村人は塚を築いて弔ったという。入水自殺した池は「八橋」(沢)の名残の「業平池」、塚は鷹師山(標高8m)の「恋慕塚」である。
■『参河国名所図絵』「逢妻川」
池鯉鮒駅を少し離れて西に在り。水源・賀茂郡土橋辺より花園村の東を流れて八橋に至る。池鯉鮒に至りて駅西を流れ、末は苅屋に至りて海に入る。遇妻川といへるは、昔、在原中将に恋想せし女あり。かきつばた姫と云ふ。業平、吾妻へ赴き給ふ跡を慕ひて八橋にて追ひ付けるが、業平、朝廷を憚り、河を隔てて遇ひ給ふ故に後世「遇妻川」といふ。其の女、別れを悲しみて、恋死しける。その屍を八橋の辺、鷹師山に葬る。今に其の塚ありと云ふなど渡辺政春の『三河雑記』に見へたり。
八橋の里に御着き有りて、四方の景色を詠覧あれば、水行く川の蜘蛛手なるに渡せる橋は名のみにして、僅かに橋の柱のみ朽ち残り、杜若の沢は半ば埋もれて賤が田面と成りにけり。(『三河八代記古伝集』)
八橋伝承地へ行ってみたら、地名のみ残り、橋は朽ちて橋脚のみが立っていた。杜若が咲き誇っていた沢の大半は埋め立てられて、貧しい農民の田んぼになっていた。
ここから先は
1,525字
/
3画像
¥ 500
期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。