司馬遼太郎『覇王の家』を読む ②
そういうキコリ仲間に、あるとき突如、親玉が出現して戦闘員に組織したのが、家康より八代前の親氏であろう。かれは流浪の賤民で、この山間部にながれついた。親氏はこのキコリ部落にながれついたときは乞食坊主の姿をし、
「徳阿弥(とくあみ)」
と名乗っていた。阿弥という名のつくのは、室町期に流行した時宗の徒のシルシである。念仏をとなえては食を乞うて諸国を遊行してまわり、どこで果てるともわからない。諸国の奇譚奇説や、風俗人情をよく知っており、なむあみだぶつをひとにすすめるだけでなく、そういう話題が豊富であったから、話上手の遊行僧なら、土地の長者に気に入られれば二月も三月も逗留する。ときにその屋敷の妻の心を蕩(とろ)かしたり、娘に通じたりそて、この種の風来坊は定着民にとってはゆだんがならない。
──司馬遼太郎『覇王の家』
織田がつき羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川
天下茶屋で、名物「天下餅」を食す。
天下茶屋の前に、
「七つ井戸」(松平氏居館の7つの井戸)の1つ「見初めの井戸」が復元されている。
「見初めの井戸」は、元は「松平親氏公笠掛けの楓」の脇にあった。
昭和7年(1932年)に土砂で埋まってしまったので、観光用として(結ばれない男女が結ばれるよう祈れるように)天下茶屋に復元したという。(案内板の下の植物はアヤメかな? 花が咲いていないから分らない。咲いていても、私は、カキツバタやハナショウブと区別できないけどね。)
在原松平①信盛─②信重┬海女
└水女(すいひめ)
‖
徳阿弥(松平③親氏)
在原松平信盛の娘・水女と徳阿弥が出会った場所であるので、「見初めの井戸」という。徳阿弥が高月院へ行く途中、笠を脱いで(当日は雨)楓の木に掛けて休んでいた時、連歌会に出す茶の水を汲みに来た水女と出会ったという。
「見初めの井戸」(天下茶屋案内板)
その昔、在原家の屋敷には七つの井戸がありました。その1つが「見初めの井戸」です。
松平親氏公(徳阿弥)が高月院を尋ねる道すがら、咲き誇る「あやめ」の美しさに見とれ一息入れて居られました。その時、水姫が井戸の水に一輪の花を添えて差し出しました。これがお二人の出会いでした。
以後、恋愛が自由でない時代に、多くの若い男女が見初めの井戸によって結ばれたと言われています。
http://www.matsudairagou.jp/info/doc20190304-073120.html
時宗の遊行僧・徳阿弥は、在原松平信重の次女・水姫と結婚し、松平親氏と名乗りました。毎日、領内を視察したそうで、上の銅像は、その視察中のお姿です。
松平郷の松平親氏公行場。
もう1つの行場「天下峯」の山麓の「安全寺」の仁王像(吽像)です。
左腕が落ちてますが、これは復元した像で、「本物は黄金製で、まだ安全寺跡に埋まっている」と伝えられています。とはいえ、本物は、松平親氏が彫ったとされていますので、表面に金箔が貼られていたのでしょう。松平親氏が建てた安全寺は、永享年間(1429-1440)の山津波で埋もれ、松平⑤長親が自ら掘り起こすと、黄金の仁王像が出てきたので、寺を再建するも、宝永の大地震(1707年)の山津波で再び埋もれ、現在地に再建されました。今の仁王像は、この江戸時代の再建時に復元された像です。
松平親氏が天下峯で唱えた「松平親氏公願文」(天下泰平を願って唱える祝聖文。出典は『無量寿経』で、浄土宗でよく唱えられる)。
天下和順(てんげわじゅん)
日月清明(にちがっしょうみょう)
風雨以時(ふうういじ)
災癘不起(さいれいふき)
国豊民安(こくぶみんなん)
兵戈無用(ひょうがむゆう)
崇徳興仁(しゅうとくこうにん)
務修禮譲(むしゅらいじょう)
「キコリ仲間に、あるとき突如、親玉が出現して戦闘員に組織した」松平親氏が現れたわけであるが、
①本当に多くのことを1人で成し遂げたのか?
②没年が不明で、康安元年(1361年)説から応仁元年(1467年)説まで106年もの開きがあるのはなぜか?
③松平親氏の子とされる酒井広親、松平信広、松平信光は誰の子か?
など、謎が多い。(たとえば①については、松平親氏が天下峯で考えた「天下和順」の願文は、実は「松平親氏が天下峯で考えた」のではなく、『無量寿経』の一節であって、「松平親氏が天下峯で、最もふさわしいと選んだ」願文であることを、今回、示した。)
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