藤長庚『遠江古蹟図会』044「掛川雲霧城」
徳川家康が小笠山砦から大砲で掛川城を撃とうとすると、掛川城の三日月堀から霧がたち、掛川城を隠したことから、掛川城は「雲霧城」と呼ばれるようになったという。(霧は三日月堀からではなく、「霧吹き井戸」から出たとされる。)
小笠山砦は遠くて、玉は届かないであろう。近くの青田山砦からでも届かないと思う。
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徳川家康が小笠山砦から大砲で掛川城を撃とうとすると、掛川城の三日月堀から霧がたち、掛川城を隠したことから、掛川城は「雲霧城」と呼ばれるようになったという。(霧は三日月堀からではなく、「霧吹き井戸」から出たとされる。)
小笠山砦は遠くて、玉は届かないであろう。近くの青田山砦からでも届かないと思う。