大久保彦左衛門忠教
「大久保党」(大久保一族)の構成員って何人だと思いますか?
「三河大久保党三十六騎」と言いますから36人だと思いますが、研究者によれば61人だったそうです。(『戦国大久保党』という「大久保党」を主役とするドラマで、61人の大久保さんが出てきたら、名前を覚えるだけでも大変そうですね。)
知名度が高いのは、まずは「徳川十六神将」にランクインしている大久保忠世、大久保忠佐の2人。次に、研究者には『三河物語』の語り手、庶民には映画やTVドラマで一心太助と共に「天下のご意見番」として(盥で登城とか)有名な大久保彦左衛門忠教でしょうか?
大久保彦左衛門忠教は、河竹黙阿弥(鶴屋南北の弟子)が書いた歌舞伎芝居や、講談や、「書き講談」立川文庫で有名ですが、映画で初めて演じたのは、日本初の映画スター「目玉の松ちゃん」こと二代目尾上松之助です。彼が主演した1000本を超える作品の主演回数は、
1位:大石内蔵助(20回)
2位:水戸黄門・徳川光圀(13回)
3位:大久保彦左衛門忠教(10回)
で、今回取り上げる大久保彦左衛門忠教が3位! トレードマークはメガネ(支柱式天狗眼鏡、鼻立て丸眼鏡)ですが、戦国時代にメガネはあった?(上の月岡芳年の絵ではメガネをかけてない。)
そもそも、「天下のご意見番」とは、徳川家康が臨終の時、
──彦左衛門のわがまま、無礼を許す。今後将軍に心得違いがあるときは、彦左衛門に意見させよ。
と遺言したことによるそうですが、出典、真偽ともに不明です。数多くのあるエピソードの代表格は、「大盥」(盥に乗って登城)と「お茶壺道中」でしょうか。
■岡谷繁美『名将言行録』
宇治の茶師、茶を江戸に献ず。路上、人を避くるを以て故事と為す。忠教之に途に遇へども避けず。吏、之を叱す。忠教、陽はり知らざる真似して「何事ぞ」と問ふ。曰く、「此は是公の茶なり」と。忠教笑て、「我は是公の人なり。茶、豈に人より貴からんや。当に我を避くべし」と言ひしとぞ。(宇治から江戸への「お茶壺道中」に道で出くわしたら避ける習わしになっていたが、大久保忠教は、道で出くわしたが避けなかったので、役人に怒られた。大久保忠教は、その纏わりを知らないふりをして、「何事だ?」と聞くと、「これは徳川将軍に献上するお茶だ」と言うので、「私は、その将軍の直参旗本である。お茶は人より尊いのか? お茶が私を避けるべきである」と言ったという。)
「天下のご意見番・大久保彦左衛門」は、「虚像」だと思われますが、彼の「三河武士らしさ」=「妥協せず、批判すべきことは徹底的に批判し、信念を貫くという生き方、生き様」は「実像」であり、このような話は、「彼ならありえる」「三河武士らしい」と思われて、多くの人々から愛され続けているのでしょう。最近の三河武士の評価は「面倒くさい人たち」のようですが。
1.大久保氏の出自
宇都宮泰藤─宇都宮泰綱─宇津泰道─宇津泰昌─宇津昌忠─宇津忠與
宇都宮泰藤(藤原氏道兼流)が上和田の妙国寺(宇都宮泰藤~宇津忠與の墓所。上の写真は妙国寺の宇都宮泰藤の墓。大久保氏の墓所は長福寺)の前に住んだのが大久保氏の始まりだそうです。
宇都宮泰藤の孫・泰道は、「宇都宮」から「宮」を省いて「宇都(宇津)」とし、その後、大久保忠俊の時、越前国の大窪藤五郎が武者修行で三河国に来て、
「『大窪』と名乗って欲しい」
というのでそうしましたが、後に、「大久保」に改めたそうです。
■『徳川実紀』
大久保が家は、粟田關白道兼公五代の苗裔、下野國の住人・宇都宮左衞門尉朝綱末葉之。後醍醐天皇の御とき、朝綱が九代の孫左近將監泰藤官軍に隨ひしが、新田左中將義貞朝臣討れ、官軍利を失ひしにより、泰藤も越前國をのがれて三河國に來り住す。泰藤より四代宇都野八郞右衞門昌忠、はじめて信光君につかへ奉りしより、子孫永く當家普第の御家人とはなりにけり。昌忠が三代の孫・左衞門五郞忠茂が長子・新八郞忠俊がとき、兄弟悉く「大久保」に改む。忠茂が三子・平右衞門忠貞は、忠隣が順父なり。父をば、七郞右衞門忠世といふ。
■『寛政重修諸家譜』「大久保忠俊」
曾て、越前の人・大窪藤五郎某、武者修行して三河国に来り、
「我が名字を残すべき者は忠俊なり。名乗りべきや」
と云ふ。忠俊、その言をもつて、清康君(注:徳川家康の祖父の松平清康)につけ申すのところ、
「かの藤五郎は、きこゆる驍勇なり。渠が望に従ふべし」
とありしかば、これより忠俊兄弟、皆、「大窪」と名乗り、後、「大久保」に改む。(中略)この年(注:天文9年)、安城の戦ひに先に忠俊に家号を与へし大窪藤五郎某、忠俊に云ひて曰く、
「われ、姓氏を残せし上は、死すとも悔る事なし。今、其の験をみすべし」とて、真先に馳せ、力戦して討死す。
宇都宮泰藤がなぜここ(愛知県岡崎市)にいるかというと、菩提寺・妙国寺の近くの式内・糟目犬頭神社によれば、この糟目犬頭神社は、式内・糟目神社で、後に犬頭霊神が祀られたが、実は犬の頭ではなく、宇都宮泰藤が盗んできた新田義貞の首だそうで、宇都宮泰藤は墓守をしていたそうです。
そういえば、式内・糟目犬頭神社の鳥居や狛犬が、新田義貞が討ち死にした藤島の灯明寺畷(福井県福井市新田塚町)の近くでしか採れない笏谷石(しゃくだにいし。福井県福井市の足羽山(新田義貞を主祭神とする藤島神社がある山)で採掘される石材)製ですね。
偽書とされる『浪合記』には、「宇津十郎忠照、三州前木に住す。桐山、和田の大久保祖也。元は駿河国富士郡住人・宇津越中守の二男也。宇津宮甚四郎忠成、同国大久保に住す」とまた別の出自が書かれています。
ちなみに私は、宇津宮氏が岡崎の宇津氏と結びついて土着し、本拠地を和田に移して大久保と名乗ったと考えています。
2.大久保彦左衛門忠教の生涯
平助(後の大久保忠教)は、永禄3年(1560年)に、大久保忠茂の五男・大久保忠員の八男として、上和田城(愛知県岡崎市上和田町南屋敷。上の写真の「大久保一族発跡地」碑がある場所)で生まれました。
「大久保党」の名を世に知らしめたのは、永禄6年(1563年)~永禄7年(1564年)の「三河一向一揆」です。大久保氏は一向宗の宗徒ではなく、法華宗の宗徒ですので、徳川家康側として、思う存分、戦いました。これは、平助が4歳から5歳にかけてのことですので、参陣はしていませんし、記憶にもないでしょう。大久保忠教は61人の「大久保党」の中では下っ端というか、若いです。
平助は、天正3年(1575年)に16歳で元服しました。講談では、この年の「長篠の戦い」の鳶ヶ巣砦の攻撃を初陣(ういじん)としていますが、実際は秋葉山付近の「犬居城(静岡県浜松市天竜区春野町堀之内字犬居)攻め」が初陣のようです。
※「犬居城攻め」は2度あり、天正2年(1574年)の「第一次 犬居城攻め」では、山中でのゲリラ戦となり、徳川家康は破れています。天正4年(1576年)の「第二次 犬居城攻め」では、徳川家康が勝利しています。初陣は、元服後のことが多いので、大久保忠教の初陣は、天正4年(1576年)の「第二次 犬居城攻め」でしょう。
初陣以後、徳川家康に仕えて各地を転戦し、多くの武功を立て、後には御鎗奉行や御旗奉行を務めています。特筆すべきは、天正9年(1581年)3月22日の「第二次(第三次とも) 高天神城の戦い」で、高天神城の城代・岡部元信に最初の一太刀を浴びせたことでしょう。原文を載せますが、まず読めない(笑)。大久保忠教は字の読み書きができず、『三河物語』を子孫に残したいがために字を覚えたそうです。
■大久保忠教『三河物語』
岡辺丹波と横田甚五郎者林之谷へ、大久保七郎右衛門尉手へ出る。「番之者六人、指越候へ」とハ御意なれ共、七郎右衛門尉ハ、大久保平助尓相添へて、こゝ王の者を十九騎指越ける。然間、城の大将尓て有ける岡辺丹波を者゛、平助がたち付而、寄子の本田主水にうたせけり。丹波と奈の里たらバ、よ里子尓ハうたせま志゛けれ共、なのらぬうへ成。其場にて、ことことく五三人徒゛ゝハ打けれ共、せいきもき連て、皆打とめる事ハなら寸゛。然処尓、七郎右衛門尉所より、はや春けて来りけれ共、春やことおハりぬ。
(岡部元信と横田甚五郎は、大久保忠世が固めていた林之谷に出た。「林之谷を固めている者の内、6人を加勢として差し向けて」と頼んだところ、19人も差し向けてくれた。その間に、城代(城の大将)・岡部元信に大久保忠教が最初の太刀をつけると、後は寄子(家臣)・本多主水に任せて討たせた。(その後の首実検で、岡部元信だと分かって驚いた。)立会の時に「我こそは岡部元信である」と名乗ってくれていたら、家臣には討たせず、自分が討っていた。その場で数人討ち取ると、疲れてしまったが、大久保忠世からの加勢が来たときには事が済んでいた。)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/105
天正18年(1590年)、「小田原征伐」の後の徳川家康の関東移封に伴い、兄である二俣城主・大久保忠世が小田原城(神奈川県小田原市城内)の城主(45000石)に任じられると、兄・大久保忠世に仕え、3000石を与えられました。
文禄3年(1594年)に兄・大久保忠世が亡くなると、甥・大久保忠隣(大久保忠世の長男)に仕えました。兄の家臣になるのはいいとして、兄の子の家臣になるのは、どうかとは思いますが、先に書いたように大久保忠教は若く、大久保忠隣は、天文22年(1553年)生まれで、大久保忠教の7歳年上です。
慶長19年(1614年)1月24日、大久保忠隣が失脚(領地没収の上、近江国栗本郡中村郷上笠村(滋賀県草津市上笠町)、後に滋賀県彦根市古沢町の龍潭寺(上の写真)に移されて蟄居)し、改易になると、連座で大久保忠教も改易になりました。
「大久保忠世の死」「大久保忠隣の改易」「大久保忠教の改易」「大久保長安事件」といった一連の不幸の黒幕は本多正信&正純父子とも、徳川家康とも考えられていますが、大久保家では「松平信康の祟り」と考え、大久保忠増(大久保忠世の玄孫) の正室・寿昌院(奥平松平家2代松平忠弘の娘、奥平信昌の曾孫)は. 鎮魂のため、真慈悲寺を再興し、慈岳山松連寺(東京都日野市百草。廃寺)としました。
改易になりましたが、大久保家(宇津昌忠が岩津城主・松平3代信光に仕えた松平家最古参の岩津譜代)のこれまでの貢献に免じて、すぐに許され、徳川家康に召し出されると、三河国額田(愛知県額田郡幸田町坂崎)に僅か1000石を拝領して直参旗本となり、同年の「大坂の陣」には、「御槍奉行」として、早速、従軍し、徳川家康本陣を守っています。(この「大坂の陣」では、真田信繁(幸村)の急襲により、徳川家康本陣は混乱状態に陥り、「三方ヶ原の戦い」以降倒れたことがなかった旗を、御旗奉行は倒してしまいましたが、大久保忠教だけは、最後まで、「本陣の御旗は立ったままだった」と言い張ったと伝えられています。)
■大久保忠教『三河物語』
見可多可゛原丹て一度御者多のく津゛れ申寄外、あとさきニ陣尓毛御旗之く津゛れ申す無事。い王んや七十尓成らせら連而をさめの御本うどうの御旗可゛く春゛れてハ、何之世尓春ぢを寿ゝぎ可被成哉。然時ンバ、我等可゛命丹可へても、御旗之く津゛れざると申多る可゛御普代之者之やく成。
(「三方ヶ原の戦い」の時に一度だけ御旗が崩れた以外は、後にも先にも、御旗が崩れたことは無い。いわんや、70歳になられて納められた御法道の御旗(「南無阿弥陀仏」とか「厭離穢土 欣求浄土」と書かれた旗)が崩れては、何の世に恥を注ぐのか(現世だけでもなく、来世(浄土世界)へも恥を注ぐのか)。こういう時は、「我の命に替えても、御旗は崩れなかった」と言うのが御譜代の者の役目である。)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/137
■大久保陣屋跡(現地案内板)
この、八百富社は、大久保彦左衛門の陣屋跡である。
大久保氏は、もと宇都宮氏と称したが、彦左衛門の父忠員の時から「大久保」を称した。大久保氏は三河譜代中でも、岩津譜代と呼ばれる最も由緒ある家柄で、父祖代々、一族を挙げて徳川氏に仕え、 徳川幕府成立のために忠勤を励んだ。 彦左衛門忠教は、父忠員の八男で、大久保一族とともに各地に転戦、慶長19年(1614)家康の直参に取り立てられたが、 知行はわずかに坂崎における千石であった。その後、寛永元年(1624)千石の加増をうけ、竜泉寺、桑谷、羽栗などを領した。
3.大久保彦左衛門忠教の最期
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