松原客館
1.鴻臚館
平安時代に設置された国営の外交(迎賓&宿泊)施設「迎賓館」として「鴻臚館(こうろかん)」があった。また、その前身の筑紫館や難波館は、奈良時代以前の飛鳥時代から存在した。
①筑紫館(つくしのむろつみ)
福岡城の敷地内にあった。(というか、鴻臚館跡地に福岡城を建てた。)
3つの鴻臚館の内、遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。
※鴻臚館跡展示館(福岡県福岡市中央区城内)
菅原道真により寛平6年(894年)に遣唐使が廃止されたが、商人は来日し、「大宰鴻臚館」で宿泊したという。後に有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになり、「大宋国商客宿坊」と名を変えた。
②難波館(なにわのむろつみ)
古墳時代から畿内の港であった難波津には外交施設として難波館があった。承和11年(844年)、難波の鴻臚館は、摂津国国府の政庁に転用され、廃止された(『続日本後紀』承和11年10月戊子条)。
③平安京の鴻臚館
当初は羅城門(朱雀大路南端)の両脇に設けられていたが、東寺&西寺の建立のため、弘仁年間(810-824)に朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館&西鴻臚館として移転した。
平安京の鴻臚館は主に渤海使を迎賓していた。来日した渤海使は、能登客院や松原客館に滞在して都からの使者を迎え、使者に伴われて都に上り、鴻臚館に入った。
926年、渤海国が契丹によって滅亡させられた後、渤海使の来朝は無くなり、延喜20年(920年)頃に廃止された。しかし、村上天皇が天徳元年(957年)7月27日に意見封事を求める綸旨を出すと、「請不廃失鴻臚館懐遠人励文士事」(外交の再建と文芸の振興の観点からの鴻臚館復活)が寄せられ、鴻臚館は復活したという。(『源氏物語』(第1帖)「桐壺」には、鴻臚館滞在の高麗の人相占いの元を光源氏が訪れる様子が書かれている。)
2.松原客館
平安時代前期、越前国には、渤海(698~926)の使節団「渤海使」を迎えるための迎賓・宿泊施設「松原客館(まつばらきゃっかん)」があった。
松原客館は、渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓&宿泊施設として使用されていたといわれ、漢文の才を持つ藤原為時は、彼らとの交渉相手として国司に選ばれたとも。
松原客館があった正確な場所は不明だが、「日本三大松原」の1つである「気比松原」(福井県敦賀市)付近にあったのではないかといわれている。
また、『延喜式』に「凡そ越前国松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」(気比神宮が管理していた)とあることから、越前国一宮・気比神宮(福井県敦賀市曙町)付近にあったとする説もある。
Aの遺構が見つからない理由として「後世、Aの上にBが建てられた」がある。鴻臚館が福岡城になったように、松原客館は敦賀城になったのでは?
ただ、敦賀城は敦賀の中心地ですから、「(長崎で言えば出島のように)外国人は隅に閉じ込めておきたい」と考えたら、金ヶ崎城(北陸宮=金崎宮)の位置が最適かと。
■『福井県史』「松原客館の実態とその位置」
①「客館」の特質
②松原客館の管理と創設時期
③松原客館と敦賀津(津守)
④松原駅館(客館)の現地比定
⑤松原客館と気比神宮
⑥松原客館と「松原倉」
■私説
DNA解析により、現在の日本人は「縄文人」の子孫でも、「弥生人」の子孫でもなく、「古墳人」の子孫であることが分かった。
この「古墳人」の正体について、「火山の爆発により大陸に避難した西日本にいた縄文人が戻ってきた」というが、私は「渤海地域人」(後に渤海(698-926)が建国される地域の人々)であり、日本に渤海人の外交施設があったのは、渤海人と親しかったのは、同族だからだと考えている。
「日ユ同祖論者」は、「日本とユダヤには共通点がある」というが、その何倍もの共通点が日本と渤海の間にはあると思われるが、渤海の研究が進んでいないので、何とも言えない。
※『松原客館の謎にせまる-古代敦賀と東アジア』
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I023820488
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