第4回「清須でどうする!」(動画集)
■時代考証担当・小和田先生
※「大高は、今川義元をおびき出すための囮だったという解釈は、私は桶狭間の戦いをいろんな角度から研究してきましたけれども、そういった捉え方は気がつきませんで、脚本家・古沢良太さんの面白いアイディアかなというように思っています」というのはリップサービスでしょうか。
私は長年にわたって研究をしてきていませんが、「大高城や鳴海城を落とさなかったのは、今川義元を桶狭間まで誘い出すための囮/餌であった」という説は耳にしています。小和田先生が囮/餌説を耳にしていないというのが事実であるならば、小和田先生と私とでは読んでる本が違うこと、小和田先生は私の「桶狭間の戦い」に関する記事を読んでおられないことになります。
ちなみに私の説は、別稿に書いてありますが、「織田信長は、今川義元を土地の起伏が激しい尾三国境地帯に今川義元を呼び(大高城&鳴海城囮/餌説)今川義元が鎌倉街道を通ったら負け、大高道を通ったら勝てることが分かっていたので、織田信長は、なんとか今川義元を大高城へ向かわせたかった。そして、丸根砦と鷲津砦が襲われたと聞き、勝ちを確信して出陣した(丸根砦&鷲津砦見放し説)」です。
■歴史ライター・水野誠志朗氏に聞く。
※「大高城餌/囮説」をテレビで千田嘉博氏が得意げに自分の説であるかのように話しているのを聞いて「あなたの説ではないでしょ?」と違和感を感じた記憶は新しい。水野誠志郎氏は「大高城餌説」を自分が「歴史探偵」で発表後に、自分の説のように言われたので違和感を感じたという。
とはいえ、「丸根砦&鷲津砦見放し説」の前から「大高城餌/囮説」はあったと思う。学者さんには、学術論文はもちろん、一般書やTV放送を含めた「桶狭間の戦い研究史」を書いていただきたいものである。
■歴史学者・呉座勇一先生
※「清須城の前庭が広すぎ」というのは、意図的に誇張したからですが、清須城の前庭は、復元図で見ても広いです。清須城は織田信長が築いた「城」ではなく、尾張守護の「館」ですので。
https://note.com/sz2020/n/n1ea4939407ae
■濱田浩一郎のYouTube歴史塾
■田中一平先生が解説する「どうする家康」
■戦国BANASHI
■高橋学長のむさしのチャンネル
■かしまし歴史チャンネル
■ヤギシタ-ドラマ解説-「徹底解説」編
■G-yu〜檜尾健太〜
■松村邦洋のタメにならないチャンネル
■時代考証担当・市橋先生「なるほど!歴史ミステリー」
■小川さなえワールド
■白駒妃登美 「どうする家康」を人生に活かす解説
■時代考証・平山優先生のツイート
大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」はいかがでしたでしょうか。SNSをみると、様々なご意見がみられますね。ここで、はっきりと申し上げておきますと、全編にわたって、これはフィクションです。ですので、脚本家古沢さんの物語の展開を、視聴者の皆様がどのように感じられたか、面白いと思ったか、そうでなかったか、ということで、時代考証としてはほとんどいうことがないのです。脚本をもとに、演出、美術、技術スタッフが解釈して映像を作成しています。多くのご意見に、清須城が中国の宮殿のようだとか、清須の町を見下ろせる丘はないのではないか、などがありました。このうち、清須城が宮殿のようだというのは、脚本にはまったく表現されておらず、演出の方々があのように映像化したものです。ただ、脚本では「1562年(永禄5年)1月清須城 城門が開いてゆく。到着している元康、左衛門尉、数正、彦右衛門、七之助、平八郎ら、みな唖然としている」としか書かれていません。私は、映像をみて、脚本の「唖然としている」を、織田信長に会う緊張感から、初めてみた清須城が、岡崎城とは違った威圧感のある城、自分たちの城よりも大きい城にみえた、つまり実物よりも大きく見えたことを表現したものと解釈しています。なお、瀬名と今川氏真のやりとりは、前回の時代考証の呟きで述べたとおり、この時彼女は亀姫とともに、岡崎に送られており、駿府には竹千代(松平信康)のみが残っていましたので、完全なるフィクションです。
(1)お市の生年について
お市についても、ご批判がありました。今回の設定では、元康と同じ年ということにしています。そのうえで、元康の人質時代に出会っており、劇的な印象を彼女に残したというストーリー展開にしています。ですが、私は彼女をこの段階で出すことには反対でした。元康と同じ年、あるいは人質時代に印象を残すような状況にはないだろうというのが理由です。ただ、お市の生年については定説がなく、天文16年生まれというのが通説であるものの、確実な史料による裏づけがありません。出典である「柴田勝家公始末記」という近世の軍記物です。そのため裏付けとしては、かなり厳しいものです。近年明らかにされたところでは、浅井長政との結婚が永禄10年、長女茶々を産んだのが永禄12年、次女初は元亀2年、江は天正元年であることが確定しています。浅井氏滅亡後、捕縛され処刑された長政の息子万福丸は、享年10であったことが『信長公記』に明記されていますので、生年は永禄7年であり、お市の方の子供ではないことが明らかとなりました。すると、天文16年生まれとして、結婚時は21歳となり、当時としては少し遅く、そのため実は再婚ではないかともいわれてきました。ならば、生年がもっと遡る可能性もあるというわけです。つい最近、黒田基樹氏は、お市の生年を天文19年ではないかと指摘していますが、これも出産年齢はもう少し若いはずだという推測にもとづくもので、確証を欠いています。生年がわからないのであれば、番組の設定としてはどうかと相談されました。私は自信がなく、反対意見を述べ、他の方に判断を委ねた次第です。しかしながら、時代考証担当の一人として、責任は十分に自覚しており、ご批判は甘受します。
(2)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅠ
織田信長と徳川家康の同盟締結については、永禄4年2月に和睦、同5年1月15日に清須城で両者が会盟し同盟が成就したといわれてきました。これは『武徳編年集成』を初めとする江戸幕府の編纂した歴史書によるものです。このうち、永禄4年2月の和睦は、新行紀一氏の研究により、明確となりました。この時両者は起請文を取り交わし、領国の境目を決めていたようです。和睦の仲介者は、水野信元でした。このあたりの出来事を、今回は清須訪問の時のこととしてドラマでは描いています。ところが、家康が清須を訪問したという、永禄5年1月15日のことについては、今のところほぼすべての研究者は、その実在を否定しています。その理由として、『三河物語』『松平記』という戦国期に近い史料には、この重要な事実が記されておらず、江戸時代の編纂物に初めて登場すること、当時の家康に岡崎を留主にして清須を訪問する情勢にはないこと、などです。また、永禄5年1月に同盟が成立していたとしたら、信長の対一色(美濃斎藤)戦、家康の対今川戦、それぞれに相互が援軍を送っていてしかるべきなのに、その形跡が見られないことも重要です。また確実な史料にも、もちろん信長と家康が攻守同盟を締結したことを窺わせるものは、発見されていません。あくまで和睦(停戦)に留まっていたと考えられます(ただし極めて友好的な意味での和睦)。
(3)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅡ
信長と家康の和睦が、攻守同盟に発展するのは、永禄6年3月2日のことと考えられます。これは、信長息女五徳と家康嫡男竹千代(信康)の婚約が成立したことにあります。当時竹千代は5歳でした。このことを記録する史料は、『朝野旧聞襃藁』『徳川諸家系譜』などによるものです。裏付けとしては不安が残るものなのですが、これは事実を伝えている可能性が高いのです。というのも、永禄6年秋に勃発した三河一向一揆に際して、水野信元が援軍として家康のもとに来ていることが指摘されているからです。対今川戦でも、水野はもちろん織田の援軍が派遣された形跡はそれまでありませんでした。ところが、永禄6年末から同7年初頭の三河一向一揆戦では、水野勢が派遣されています。これは、信長との攻守同盟が成立していなければ理解できません。このことから、清須同盟は永禄6年3月に成立したとみられますが、家康による清須城訪問はなかったのが事実でしょう。今回のドラマでは、完全なる脚色です。
第4回は、古沢さんによる家康の苦悩と決断という物語が展開されました。これが次回の、妻子奪回へどう繋がっていくのかをぜひお楽しみください。妻子奪回作戦は、大部分が脚色ですが、史実も含まれています。このことは次回の呟きでご紹介することにしましょう。
それでは、今宵はここまでにいたしとうござりまする。
さすがに、この暴言は許せない。「脚本家や演出の暴走止められないなら仕事してないのと同じ」とはよくぞ言ってくれましたね。私は仕事をしていないと指弾された、侮辱されたと受け止めます。前提が間違っている。ドラマは良質、悪質の区別なく史実ではない。またそれを史実と信じさせているわけでもない。史実だと信じるのは、受け取る側の問題。ならば、ゲームは?小説は?まずはそこから入り、触れ、興味をもち、ホントの所はどうなんだろうか、と進めばそれでよし。それをホントだと勘違いし続ける人がいても仕方がない。ゲームの内容を史実だと受け取っている人がいるとはあまり思えないが、普通は興味が出たら調べるもんじゃないのかな?少なくとも、歴史学の関係者以外の多くも、興味が出たら調べるし、わからずにそのままあやふやな理解のままのこともある。それは悪いことではない。
なんだか疲れてきちゃったな。ものすごく忙しいってのに。