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司馬遼太郎『覇王の家』を読む

  三河かたぎ

 奥三河の山のなかの坂をのぼって、松平郷という、これ以上は山径(やまみち)もないという行きどまりの小天地に行ったときの夏の陽ざかりの印象は、筆者にとってわすれがたい思い出になっている。
(ここがあの徳川家の発祥の地か)
 とおもえば、草木まで意味ありげにおもえてはくるのだが、なににしても山が深く地がせまく、しかも気づいてまわりを見まわしてみると、みぞほどの流れもない。水がないというのは、米がとれないということである。徳川家の祖である松平氏は、ここでひえやあわを食べ、日常はキコリとして山を駆け、木を伐っていた強悍(きょうかん)なグループであることは、地形をみればたれにでも推察がつく。このことは、元帝国をおこした連中が、北アジアのアルタイ山のふもとで遊牧していたささやかなグループであったことをおもわせる。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』


 岡崎城から足助街道(愛知県道39号岡崎足助線)を北へ。
 大樹寺を過ぎ、岩津城を過ぎてしばらく行くと巴川に架かる港橋に至る。江戸小唄に

 ──五万石でも岡崎様はアー ヨイコノシャンセ
           お城下まで船が着く​ションガイナ

と岡崎宿の賑わう様子が謳われているが、実は、矢作川は、支流・巴川に入って、この港橋が架かる「九久平山湊」まで遡ることが出来、ここでは海の物と山の物が交換、あるいは売買された。特に塩は、ここから陸路で足助に運ばれ、ブレンドされて「足助塩」として販売された。(大給は荻生徂徠を輩出した荻生氏の本貫地とする説もあるが、どうであろうか? 講談「徂徠豆腐」──金欠悲し。有名になるまではサポーターが必要だ。)

 港橋のたもとにある道標から東に折れ、「新城街道」(国道301号)を往くと松平郷(愛知県豊田市松平町)に達する。
 司馬遼太郎の松平郷のイメージは、「水のない山奥」であったか。

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 豊田市の人ならば、学校の遠足で行ったであろう大給城は紅葉の名所であり、松平郷には「松平親公笠掛けの楓」もあることから、松平郷は「紅葉の里」のイメージが強いが、この時期、楓の葉はまだ緑で、「紫陽花の里」のイメージである。

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 松平郷に「在原山」という名の「山」というより「岡」があり、在原松平氏の墓所がある。(墓石の形がいびつなのは、複数回の地震で倒れ、割れ、その都度、修復せずに組み直したからである。)

 在原松平①信盛─②信重┬海女
             └水女(すいひめ)

 在原氏は、京都から「中桐」に来て、そこを「松平」と名付けて松平郷の郷主となった。大金持ちであったという。『松平由緒書』には「加茂郡で9ヶ村、額田郡で6ヶ村」を買い取ったとある。
 司馬遼太郎が言うように稗や粟を食べる貧しい暮らしではなく、買い取った村で穫れた米を食べ、連歌会も開くという優雅な生活をしていたという。
 私の説は「松平氏は、在原氏ではなく、末野原(末の原野)の末氏(陶氏)で、屋敷は駒場にあり、松平郷の屋敷は、避暑や連歌会開催の別荘」である。後に鈴木氏に追われて、松平郷を本拠地にしたのであろう。

◉末野原:「末野原」「上野」「緑野」で「三つ野」という。
・ 梓弓末の原野に鳥狩する 君が弓弦の絶えむと思へや(『万葉集』)
・春ふかくなりゆくままに緑野の 池の玉藻も色ことに見ゆ(和泉式部)

◉駒場:屋敷跡が発掘されたが、文献(『三河国古今城塁地理誌』『三河国二葉松』等)に掲載がなく、誰の屋敷か不明。酒井氏の居館とするには、居城・上野城から離れすぎているし、鈴木氏の居館とするには、居城・挙母城から離れすぎている。

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 在原松平氏居館は、水堀に囲まれています。
 水堀には緋鯉がゆったりと泳いでいます。

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 在原松平氏居館には、江戸時代まで松平太郎左衛門家のお屋敷でしたが、現在は東京に転居されて、松平東照宮となっています。

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 松平郷最大のパワースポット「若宮八幡宮」へ。

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 若宮八幡宮の神体石です。境内の「神君産湯の井戸」を掘っていた時に出てきた岩で、徳川氏に危機が迫ると、七色に光り輝いて知らせるのことです。(科学的にはありえないですね。強いて言えば、「神君産湯の井戸」から虹がたつとか?)

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 高月院は、松平郷主・在原松平信重の援助を受けて、足助次郎重宗の子・重政( 寛立上人) が建立した寺です。
http://www.matsudairagou.jp/about/kogetsuin.html

※松平氏遺跡 :松平氏発祥地の松平氏館跡(松平町赤原)、松平城跡(松平町三斗蒔)、大給城跡(​大内町城下)、高月院(松平町寒ケ入)の4ヶ所が初期松平氏の様相を伝えていることから一括して「松平氏遺跡」の名で史跡指定を受けている。
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/3248

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 徳川家康のように天下は取れないまでも、荻生徂徠のように有名人になれないまでも、「行きたい史跡にすぐに行ける貯金がある人間」にはなりたい。宇佐へ行きたい。
 という願いを込めて、天下茶屋で「天下餅」を食す。
http://www.matsudairagou.jp/about/#main-3

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 今回のモデルは、知る人ぞ知る蛍さんでした。(「有名人」って、その分野の関係者は「神」と絶賛する「天下人」であるが、その分野を知らない人にとっては、「有名人」ではなく、「一般人」である。まぁ、ゴルフのようなメジャースポーツのメジャー大会で、日本人同士でプレーオフを戦えば、誰もが知る有名人になりますけどね。)

◆参考サイト「松平郷」
http://www.matsudairagou.jp



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