大岡弥四郎忠賀と「大岡弥四郎事件」
大岡氏の本貫地は、三河国八名郡大岡郷(現・愛知県新城市黒田字大岡)である。有名な北町奉行・大岡⑤越前守忠相は、謀反人・大岡弥四郎忠賀の従兄弟・大岡①忠勝の後裔になる。それで、大岡氏に忖度し、「大岡弥四郎」の名は、「大賀弥四郎」という名に変えられて広められたというが、どうであろうか。
Reco説:『岡崎領主古記』に「大岡弥四郎(「大岡」、諸書、「大賀」に作る)」とある。正しくは「おおおか(大岡)」であるが、話す時は「おーか」である。(「はままつ(浜松)」を「はまーつ」と言うようなもの。)『三河物語』の作者・大久保忠教が「おーか」を「大賀(おおか)」と表記し、大岡弥四郎事件について最も詳しく書かれている『三河物語』を参考にした作者たちは、『三河物語』を信用し、著書で「大賀弥四郎」とした。ただ、大久保忠教は、『三河物語』を書くために文字を学んだとされ、『三河物語』には誤字、当て字が非常に多い。
『岡崎領主古記』
大岡忠教┬善吉─①忠勝…⑤忠相
└某─忠賀
※大岡忠相:赤坂の屋敷に、屋敷神として地元の豊川稲荷を祀ったところ、出世して大名(岡崎の大平藩主)になったので、豊川稲荷は出世稲荷だとして、全国に広まった。
※太田亮『姓氏家系大辞典』「大岡 12藤原北家教実流」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1123818/1/560
さて、「謀反を起こした人」ではなく、「謀反が発覚して未遂に終わり、鋸引きの刑に処された人」として悪名高き大岡弥四郎忠賀の実像は?
■『徳川実紀』「大賀弥四郞」
大賀弥四郞忠賀は、初めは「中間」(武家の召使の男)であったが、民政や算術に長け、心配りも出来る男であったので、登用され、三河国奥郡(渥美郡)20余村の代官を命じられた。徳川家康&信康親子の信頼が厚く、浜松に住んでいたが、岡崎にも呼ばれ、「弥四郞がいなくては事が進まない」とまで言われる程の「出頭人」(権力者)となった。
大賀弥四郞忠賀は、次第に驕り高ぶり、好きな者には優しくし、嫌いな者にはきつくあたるようになり、暗に賄賂を要求したようで、「不公平な人間だ」として、徳川家臣の中には大賀弥四郞忠賀を好かぬ者が現れたが、大賀弥四郞忠賀は徳川家康&信康親子のお気に入りの者であったので、表立って悪口は言えなかった。
こうしたところに、頑固者で知られる近藤某が、戦功をあげ、「新恩の地」(領地)を与えられた。大賀弥四郞忠賀は、近藤某に向かい「私の取り計らいにより新恩の地が得られたのである。これからは私に奉仕せよ」と言ったので、近藤某は怒り、無言でその場を立ち去り、その足で老臣の許に行き、「今回の新恩の地は返す」と言った。老臣に理由を聞かれたので、説明し、「私はどんなに窮困しても、大賀弥四郞忠賀にへつらって領地をもらおうと思わない。新恩の地の返却が不忠にあたるのであれば、腹を切る」と言った。それを老臣が徳川家康に伝えると、徳川家康は、近藤某を呼び、「汝に新恩の地を与えるのは大賀弥四郞忠賀の指示があったからではない。田植えをする姿(注)、忘れてないぞ」と言ったので、近藤某は泣きながら立ち去った。
(注)徳川家康が鷹狩りをした時、近藤某が田植えをしている姿を見て、「わしに力がなくて申し訳ない。広い領地を持っていれば、田植えなどさせなくて済むのに」と泣いたという話。
近藤某/近藤壱岐守/近藤伝次郎については正体不明。駿府人質時代の有名な「近藤」といえば、宇利城主の近藤と、沓掛城主の近藤である。司馬遼太郎は近藤登之助貞用に比定している。
その後、徳川家康は、密かに近藤某を呼び、大賀弥四郞忠賀について詳細に聞いた。近藤某が言うには「悪行を知っている者もいるが、大賀弥四郞忠賀が怖くて言えない。このままでは御家の大事になりかねない。詳しくは目付に聞けばよい」と言うので、徳川家康は驚き、老臣を呼び、「このような御家の大事をなぜ隠していたのだ」と問うと、「大賀弥四郞忠賀は、徳川家康&信康親子の信頼が厚いので、報告しても聞かないばかりか、怒り出すと思ったので報告しなかった」と答えた。
そこで大賀弥四郞忠賀を捕らえて家を捜索すると、甲斐国の武田勝頼と内通する証拠の書状が発見された。その書状の要旨は、「大賀弥四郞忠賀の親友の小谷甚左衞門、倉地平左衛門、山田八藏等と共謀し、武田勝頼が奥三河の設楽郡作手(愛知県新城市)まで出陣し、先鋒を岡崎城に進めれば、大賀弥四郞忠賀が「德川家康である」と嘘をついて岡崎城の城門を開かせ、その先鋒を城内に入れ、信康を殺し、城内にいる三河&遠江両国の人質を奪えば、三河&遠江両国の国衆たちは皆味方となるであろう。德川家康は浜松にいられず、尾張国か伊勢国へ逃げるであろう。こうして武田勝頼は無血で三河&遠江両国を得られる」であった。武田勝頼は、この書状を見て大変喜び、「もし、上手くいったら、恩賞は望み通りに与える」という起請文を取り交わし、作手まで出陣した。この時、山田八蔵が改心して、信康にこの企てを報告したので、事は露見した。
・大賀弥四郞忠賀の妻子5人:岡崎東端の念志原(根石原)で磔死。妻は「三方ヶ原の戦い」において討死した二俣城主・中根正照の娘。(「大賀が妻、其の子四人を捕りて三州念志原に磔にす」『家忠日記増補追加』)
・大賀弥四郞忠賀:浜松城下を引き回しの上、念志原で妻子の磔姿を見せ、岡崎の連尺町の大辻に生きたまま土に埋め、竹鋸にて往来の者に首を引かせたので、7日目に死んだ。
・小谷甚左衞門:渡辺半藏守綱が召し捕ろうとしたが、天竜川を泳いで渡り、二俣城に逃げ込み、さらに甲斐国に逃げた。
・倉地平左衛門:今村彥兵衞勝長、大岡孫右衛門助次&伝藏淸勝親子で討ち取った。
・山田八蔵重英(しげふさ):1000石拝領。返忠の功を賞賛された。
德川家康がいつまでも言うには「昔、鷹狩りに行こうとした時、老臣は止め、大賀弥四郞忠賀だけがついてきた。その後、老臣も止めなくなった。近藤某の直言がなければ徳川家は危なかった。恐ろしいのは侫臣である。人の上に立つ身としては、家臣の賢否邪正を見極め、言いたいことを言える環境を作ることを第一の先務とするべきである」と(『御遺訓』)。
※『御遺訓』八
https://dl.ndl.go.jp/pid/917175/1/36
https://dl.ndl.go.jp/pid/950846/1/38
https://dl.ndl.go.jp/pid/953299/1/44
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