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「浦島太郎伝説」とは? ー民話化された484年後の真相ー

 以前、亀に関する伝説の研究をちょっとだけしたことがあるのですが、亀の凄い点は、
───海中でも、陸上でも生きられること
であり、この水陸両用機能により、異世界と行き来する乗り物になるってことです。

 さて「浦島太郎伝説」とは、童謡「浦島太郎」にあるように、「浦島太郎が助けた亀に乗って竜宮城へ行き、3年過ぎた時点で故郷へ帰りたくなり、帰ったら300年(『日本後紀』『水鏡』では347年、『御伽草子』では700年)たっていた。さらにお土産にと渡された玉手箱を開いたら老人になった」という伝説です。

月岡芳年

 実は、この伝説、歴史書である『日本書紀』(雄略天皇22年7月)に出てきます。

■史料①『日本書紀』「雄略天皇紀」478年7月

■雄略天皇22年(戊午478年)7月
 秋七月。丹波国余社郡管川人水江浦嶋子、乗舟而釣。遂得大亀。便化為女。於是浦嶋子感以為婦。相逐入海。到蓬莱山、歴覩仙衆。語在別巻。

【現代語訳】 478年7月。丹波国余社郡管川の人の瑞江浦嶋子(ミヅノエノウラシマノコ)は、船に乗って釣りをしていた。遂に大亀を得た。この大亀は女に変わった。浦嶋子は心が高ぶって婦(め)にした。女に従って海に入った。蓬莱山(とこよのくに)に至り、仙衆(ひじり。仙人)を巡って見た。この物語は別巻にある。

※浦島太郎:『日本書紀』によれば、浦島太郎の正しい名前は「瑞江浦嶋子(ミヅノエノウラシマノコ)」(「瑞江浦の嶋子」なのか、「瑞江の浦 嶋子」なのか)です。
 「浦」が名字であれば、「浦部氏」(「浦辺氏」とも表記。また亀卜が得意だったので「卜部氏」「占部氏」とも表記)、「嶋子」と聞くと、安曇氏初代嶋津彦命を思い出しますが・・・名前の「子」は男子の尊称ですので、ただの漁師では綯い気がします。

※瑞江浦:丹後国竹野郡水江。網野にある淡水湖で、「澄江浦」「水江」とも。
 筒川の宇良(うら)神社(浦嶋神社とも。京都府与謝郡伊根町本庄浜)も、網野の式内・網野神社(京都府京丹後市網野町網野)も浦島子を神として祀っている。
 「網野」とは、天湯河板挙命が白鳥を捕らえようと、松原村(網野の古称)の遠津神(一説に日子坐王)に祈願し、水江に網を張ったことから、松原村は網野と称されるようになったという。

 「浦島太郎伝説」では、「竜宮城」(『日本書紀』では「蓬莱山」)という言葉が目立ち、異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類され、「神仙思想」の研究対象になっていますが、これは、あくまでも御伽話としての浦島太郎の話であり、史実の浦島太郎とは異なります。
 『日本書紀』は国史ですから、史実しか書けませんが、釣った亀が女に変わるとかありえない!(♪助けた亀に連れられて~ではないのか?「助けた」とは、「口に刺さった釣り針を取ってあげた」ってことか?)

───「浦島太郎伝説の真相」は、安曇氏初代・嶋津彦命が、神(物部氏の祖・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)に連れられ、発祥地(琵琶湖西岸)を離れ、丹後、出雲経由で(日本海ルートで)竜宮城(北九州)へ行き、年を経て、安曇氏7代・宇都志日金拆命(能の「翁」のモデル)が(桃太郎が温羅(うら)を倒して開通させた)瀬戸内海ルートで大阪の東進して墨之江(住吉)に来たという理解でOK???

 詳しいことは『日本書紀』の別巻に書いてあるそうですが、残念なことに『日本書紀』の別巻は未発見です。早く発見されて欲しいものです。

 特に私が気になったのが、「亀が人間に変身できるのか?」ではなく、

───『日本書紀』は、なぜ478年7月条に載せたのか?

です。考えられる解答は、

A.478年7月に行方不明になったから
B.行方不明になった484年後の478年7月に現われたから

です。
 「亀が人間に変身した」と目撃し、「行った先は蓬莱山である」と証言したのは誰かと考えると、それは浦嶋子(浦島太郎)本人以外には考えられないので、Bが正解だと思われます。
 とはいえ、浦島太郎の離郷は478年ですから、Aが答えなのです。そして、浦島太郎の帰郷は347年後の天長2年(825年)です。「浦島太郎伝説」は離郷と帰郷がセットになっており、養老4年(720年)に完成したとされる『日本書紀』の編纂者は帰郷については知らないはずです。

───『日本書紀』は、なぜ478年7月条に載せたのか?

 この条は後世の帰郷を知っている人物が書き加えたのかもしれません。

──語在別巻。

 別巻が読みたい。帰郷について書いてあるかどうかを知りたい。
 なお、浦島太郎の離郷から帰郷までの詳細については、『丹後国風土記』にあります。ただ、この『丹後国風土記』も怪しい。『風土記』は、『続日本紀』の和銅6年(713年)の編纂の官命で書かれた本です。『日本書紀』の編纂者は同様、『丹後国風土記』の編纂者も、浦島太郎の天長2年(825年)の帰郷については知らないはずです。帰郷について書けるはずがないのに書いている!

──なぜこんなことになったのか?

「日下部氏系図」と伊勢神宮関係書籍から導き出される解答をこの記事の最後に書いておきますので、長文ですが、ぜひ最後までお読み下さい。(按ずるに、政戦の敗者が、後世に真実を残そうとして、荒唐無稽な御伽話、民話、昔話に仕立てたということでしょう。)

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