家康、神になる。
1.徳川家康の意向
○元和2年4月2日。金地院崇伝、南光坊大僧正天海、並びに、本多正純を、徳川家康は、御病床(の枕元)に呼び、「大漸(たい‐ぜん。病気 が次第に重くなること。ここでは「病死」)の後は、(遺体を)久能山(静岡県静岡市駿河区根古屋の久能山東照宮奥社神廟)に納め、法会(葬式)は江戸の三縁山広度院増上寺(東京都港区芝公園四丁目)にて執行し、位牌は三河国(愛知県東部地方)の成道山松安院大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)に置き、1周忌後(1年後)、下野国(栃木県)、日光山へ小堂(栃木県日光市山内の日光東照宮奥社)を建てて祀れ。京都には、南禪寺中金地院(京都府京都市左京区南禅寺福地町)へ小堂を建て、所司代はじめ武士たちに、参拝させよ」と命じた。
神龍梵舜が駿府(静岡県静岡市)に来て、駿府城(静岡県静岡市葵区駿府城公園)に登城し、(徳川家康の)容体を見た(見舞った)。
〔出典『本光国師日記』『舜旧記』〕
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