角避比古神社。敬満神社、大井神社。そして、天白神社。
1.角避比古神社と敬満神社
遠江国で最も社格が高い「名神大社」は、角避比古神社と敬満神社であるが、この2社の共通点は、
──御祭神の正体が不明
ということである。一応、角避比古神社の御祭神は、角=牛の角=牛頭天王=須佐之男で、敬満神社の御祭神は、敬満(きょうまん)神=功満(こうまん)王(仲哀天皇8年に来朝した秦始皇帝三世孫・孝武王の子で、秦氏の祖)とされる。(角避比古命を祀る河名神社では、角避比古=須佐之男としているが)角避比古=須佐之男の根拠は連想ゲームであるし、敬満神=功満王の「似ている」というだけで、なぜ「物部王国」と呼ばれる遠江国に秦氏の神社があり、他の神社を抑えて大社になったのか訳が分からない。
(1)角避比古神社の御祭神
※『文徳実録』(巻2)嘉祥3年(850年)8月3日条
八月戊申。詔以、遠江國角避比古神列官社。先是、彼國奏言。「此神叢社、瞰臨大湖。湖水所漑、擧土頼利。湖有一口。開塞無常。湖口塞則民被水害。湖口開則民致豊穰。或開或塞。神實爲之。請加崇典。爲民祈利」。從之。
(8月3日。詔を以て、遠江国の角避比古神を官社に列す。是に先だちて、彼の国、奏言す。「此の神の叢社は、大湖を瞰臨(かんりん)す。湖水、漑(そそ)ぐ所、土を挙げて利を頼む。湖、一口有り。開塞、常無し。湖口塞げば、則ち、民、水害を被る。湖口開けば、則ち、民、豊穰を到らす。或は開き、或は塞ぐ。神、実に之を為す。請て崇典(すうてん)に加わり、民の為に利を祈りたし」と。之に従ふ。)
角避比古神社は、「嘉祥3年(850年)に官社に列せられた(式内社となった)。この詔(みことのり。天皇の勅命)を出すにあたり、遠江国の人(角避比古神社の神職)が奏言(官社申請)に来て、『この角避比古神社は、天伯原(諏訪上下社の上社があった諏訪山の隣の高師山の上)にあり、浜名湖を見下ろしている。浜名川の河口では、水害に備えて、田畑の周囲に杭を打ち、土を盛って耕作している。浜名湖の湖水が遠州灘(太平洋)に流れ出す流出口は、(浜名川河口の帯の湊の)1つしかなく、その開閉は一定していない。この湖水の流出口が塞がれば(水が溢れて)民は水害をこうむるが、開けば豊年となる(船も出入り出来る)。(そして、角避比古神の思い1つで)開いたり閉じたりする。ぜひとも角避比古神を官社にしていただき、民の利益(幸福)のために祈りたい』と言ったので、この訴えに従い、官社にした」とある。このように、角避比古命は、河口(湊、津)の開閉を司る水門(ダム)の神である。
三河国幡豆郡津平は、伊勢神宮「角平(つのひら)御厨」があった場所である。角避比古神の「角」は、「牛の角」ではなく、「津の」であろう。「角避比古(「都廼佐玖彦」とも)」は「津の柵彦」であろう。浜名川の河口は、南遠大砂丘の一部で、天竜川が運んできた砂で砂州(砂丘)が出来ている。天竜川が氾濫すれば、多くの砂が運ばれてきて、浜名川の河口を塞いだのであろう。これを防ぐためには、砂の流入を防ぐ杭を無数に打つ必要があり、「津の柵」とは、この隙間なく打たれた杭であろう。
「角避比古神」という御神名を初めて聞いた時は「角杙神&活杙神」(田畑の周囲の杭の神)かなと思ったが、鎮座地「静岡県湖西市新居町角避」の「角避」は、「つのさく」でも、「つのひ」でもなく、「つなぐひ」と読むそうである。これは、「綱杭」(船が流されないように打って、船と綱で結ぶ杭)のことである。
(2)敬満神社の御祭神
※『文徳実録』(巻5)仁寿3年(853年)11月27日の条
癸丑。以遠江國敬滿神靈。預於名神。
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