『中村家由緒略記』他
於義丸(結城秀康)は中村家で生まれた。
■『中村家由緒略記』
中村家初代・中村正範の7代孫・中村正清は、南朝の後醍醐天皇に奉仕し、戦功をあげ、従五位下駿河守に叙任した。延元2年(1337年)6月29日、河内国(大阪府東部)の南朝方の行在所・観心寺(大阪府河内長野市寺元)山下で戦死した。
嫡男・8代中村正武は、父・中村正清に同様、南朝に奉仕した。正平5年(1350年)9月16日、同・河内国宇野(大和国宇野?)で戦死した。
その後、4代にわたって南朝に奉仕した。
14代中村正実は、遠江国磐田郡大橋郷へ移住し、今川義元に仕えた。武功をあげ、同・遠江国敷知郡の和田、平松、宇布見、山崎、白洲等、5ヶ荘が与えられて領知した。
※中村家系図
中村①正範─②正憲─③正峯─④正賢─⑤正教─⑥正経─⑦正清→
→⑧正武─⑨正尹─⑩正貞─⑪正澄─⑫正亮→
→⑬正乾┬正時【伊賀中村氏】…
└⑭正實【遠江中村氏】─⑮正高─⑯正継─⑰光貞─⑱正吉…
文明15年(1483年)、宇布見(静岡県浜松市西区雄踏町宇布見)に邸宅を構え、(磐田郡大橋から)移住した。
15代中村正高、16代中村正継、17代中村光貞の3人は役職を踏襲し、今川家の被官として、今切関所の軍船、兵糧等の奉行を務めた。当時の書類(任命書、帳簿等)は、現在も所持している。
17代中村光貞の嫡男・18代中村正吉は、徳川家康に仕え、永禄11年(1568年)、徳川家康は、三河国より密かに中村正吉宅へ入り、密命を与えた。同永禄11年12月の徳川家康の遠江国侵攻に於いて、中村正吉は先導を勤めた。天正元年(1573年)、徳川家康の側室・於松の方(「お万の方」とも)が妊娠されたが、浜松城内に居る事が難しい事情に依り、近臣・本多重次に内意を与えた。中村正吉は、於松の方を預かり、同・天正2年(1574年)2月8日、中村正吉宅にて、若君が生まれた。幼名を「於義丸」といい、後に結城秀康と称した。
(於義丸が父・徳川家康に会えないのを不憫に思った松平信康は)天正4年(1576年)、命令して、於義丸を岡崎城へ呼んだ。この時、中村正吉夫婦も同行した。同・岡崎城にて、徳川家康と於義丸の父子は、初めて対面した。また、中村正吉夫婦も徳川家康に対面し、感謝され、諸品を拝領した。同・天正4年8月、徳川家康は、中村正吉宅を訪問し、若君(於義丸)誕生時の話を尋ねられ、胞衣塚(えなづか)の上へ梅の木を1本、自ら御手植えされた。また、屋敷神・天神宮の社殿を補修して下さった。
徳川家康は、浜松御在城中、度々、中村正吉宅を訪問した。また、処々の合戦の時、中村正吉を御供に連れて行ったが、毎回手柄をあげたので、海別(うなべつ。「山方」の対義語)代官に任命され、その上、大刀、「三つ葉葵」紋付きの小柄(こづか。大刀の鞘に付けられた細工用の小刀)、笄(こうがい。小柄と対になるように大刀の鞘に取り付けられた、髪や髷の手入れなどをするために用いられた小道具。なお、同じ意匠の小柄と目貫の揃いを「二所物」と呼ぶ)、時服(じふく。時候にふさわしい衣服)等を与えた。これらは今も所持している。
※「中村家住宅」や「胞衣塚」も重要ですが、横の「天満宮」も重要です。(下掲「天満宮由緒」参照。)
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