『どうする家康』第36回「於愛日記」の虚実
【於愛の方 基礎データ(旧説)】
・実父:戸塚忠春(大森城主。今川義元家臣。討死)
・養父:服部正尚(母の再婚相手。後の蓑笠之助)
・義父:西郷清員(西郷正勝の子。於愛は養女になって徳川家康と結婚)
・実母:西郷正勝の子・於貞
・前夫:西郷義勝(討死)
西郷正勝┳西郷元正━西郷義勝
┣西郷清員━西郷家員━西郷正員
┗西郷於貞
┣━西郷於愛
戸塚忠春 ┣━徳川家忠
徳川家康
【於相の方 基礎データ(新説)】
・実父:戸塚忠春(今川義元家臣・西郷政清の家臣。長寿)
・義父:西郷清員(於相は養女になって徳川家康と結婚)
・実母:石原百々度右衛門の女房の下女・於貞
・徳川家康が初婚(西郷義勝の子を産んだのは諏訪部定久の娘)
旧説では、父・戸塚忠春は今川義元の家臣で、大森城主であったが、「大森の戦い」で討ち死にしたので、於愛は、母の再婚相手の服部正尚(後の蓑笠之助)に育てられたとするが、遠江国に大森城は存在せず、「大森の戦い」もなかったことから、「佐野」つながりで、「大森」は大森氏(関東公方の奉公衆として有名。後に佐野郷を葛山氏に譲って小田原城主)の居城・駿河大森城(駿河国駿東郡佐野郷。現・静岡県裾野市切久保)を指し、戸塚忠春(遠江国佐野郡西郷。現・静岡県掛川市上西郷)が討死したのは、今川氏と北条氏の天文23年(1554年)3月の「刈屋川の合戦」の時だと推定されてきた。
新説の戸塚忠春は、今川義元家臣・西郷政清(静岡県掛川市の西郷を本貫地とする遠江西郷氏。後に西郷局に憚り「石谷氏」と改姓)の家臣で、長生きし、徳川家康は、於愛(新説では「於相」)と結婚した時、西郷政清が忍術指南役として呼び寄せていた服部正尚を住まわせいた屋敷(静岡県掛川市の西郷)を、戸塚忠春夫婦のために改修して「構江屋敷」(隠居所)とし、500石を与えたとする。
※服部平大夫正尚(後の蓑笠之助藤正尚):蓑氏初代。「神君伊賀越え」(下掲『柳営婦女伝系』では「大和路御潜行」)の道案内をし、徳川家康に蓑と笠を与えて変装させたことにより、無事、伊賀を越えさせられたので、徳川家康から「蓑笠之助」という名を与えられた。
二代将軍の母・於愛の養父と称して出世しようとするも、於愛が早世していたので失敗した。
・レコ説:「神君伊賀越え」の日、雨が降ってきたので、服部正尚は、徳川家康に蓑と笠を与えた。
※西郷清員:「徳川家康が、西郷出身の於愛に惚れた」と聞き、「身分の低い於愛とは結婚できぬ」とし、「西郷」つながりで、於愛の母親を父・西郷正勝の娘、於愛を自分の養女として結婚させた。
二代将軍の母・於愛の義父として出世しようとするも、於愛が早世していたので失敗。西郷家員と酒井忠次の娘との間に生まれた嫡男・西郷家員は、下総生実で5000石、西郷家員の三男・西郷正員が安房東条藩1万石の大名になった程度。
第36回「於愛日記」の脚本も、俳優さんたちの演技も最高だった!
ただ、新説とは全く異なる・・・><。
『どうする家康』の於愛がしていたのは「モデル笑い」と呼ばれる。芸能人が訓練している笑い方で、口角を上げて上の前歯を見せ、上下の唇の厚さを1:2にするという「最も美しい笑い方」であるが、「自然な笑い」とは目が異なる「不自然な笑い」である。
『どうする家康』の於愛は、望月千代や本多稲の縁談を通して成長し、晩年には徳川家康を慕い、自然に笑えるようになった。『於愛日記』の最後の行には「今では家康様をお慕い申し上げております。まだ死にたくない」と書かれていたのではないだろうか。
天文21年(1552年) 於愛、誕生(享年38歳説)
天文23年(1554年) 「大森の戦い」で戸塚忠春が討死(旧説)
永禄 4年(1561年) 於愛、誕生(享年29歳説)
永禄 5年(1562年) 母・於貞の父・西郷正勝、討死(享年不明)
元亀 2年(1571年)3月 4日 「竹広表の戦い」で西郷義勝が討死
天正 6年(1578年) 於愛、西郷清員の養女として徳川家康と結婚
天正 7年(1579年)4月 7日 於愛、2代将軍・徳川秀忠を生む。
天正17年(1589年)5月19日 於愛、急逝
於愛は、天正17年(1589年)5月19日に急逝した。享年28/29/30歳説(上掲の『柳営婦女伝系』では享年28)と38歳説(『以貴小伝』)がある。
享年29歳説では、
・父・戸塚忠春の討死後に生まれたことになってしまう。
・西郷義勝が死亡した元亀2年(1571年)には、11歳(満年齢で10歳)であり、これでは西郷義勝の複数の子を産んだのが、いずれも10歳未満になってしまい、生物学的にありえない。
として否定されていたが、新説では、
・「大森の戦い」は存在せず、戸塚忠春は討死していない。
・西郷義勝とは結婚しておらず、西郷義勝の子供たちを産んだのは諏訪部定久の娘である。
として、享年29歳説を支持している。
なお、於愛が初婚だとすると、「於愛が男子を生むまで、徳川家康は、経産婦(未亡人)を選んで結婚していた」という説も崩れることになる。
【死因について】
『どうする家康』の於愛は、時々、胸をおさえていた。
「自分を偽って笑ってきた」ことによる心労での病死という設定であろう。
於愛は、天正17年(1589年)5月19日に急逝した。
若いのに急逝したからには、毒殺や斬殺の可能性もあるという。
下掲『柳営婦女伝系』には「松平主殿助家忠家士・稲吉兵衛、害之と云々」(松平家忠の家臣の稲吉兵衛が殺したそうだ)とある。「稲」という1文字の名字は、漫画家の稲空穂さんしか知らないが、静岡県駿東郡小山町竹之下を中心に、全国に1600人おられるそうである。
https://twitter.com/ina_nanana
「稲」が当て字で、「伊奈」であれば、江戸を建てた伊奈忠次を輩出した伊奈家がある。伊奈家の面々は、築山殿の子・信康に仕えていた。伊奈忠次の伯母は、築山殿の侍女であり、築山殿の自害の際、佐鳴湖に飛び込んで殉死(入水自殺)している。(伊奈忠次も信康に仕えており、信康事件の後、父・伊奈忠家と共に堺に移り住んだ。)
・レコ説:稲吉兵衛が伊奈一族の人間であれば、「築山殿、信康母子の恨みを晴らさん」として、於愛を殺害する可能性は0ではないであろう。
伊奈忠基┳伊奈図書貞政
┣女子(築山殿の侍女)※
┗伊奈五兵衛忠家─伊奈半左衛門忠次
その稲吉兵衛の主君・松平家忠の日記『家忠日記』↓には・・・
稲吉兵衛の主君・松平家忠の日記『家忠日記』の天正17年(1589年)5月21日条には「徳川若君様御袋・西郷殿、一昨日十九日に御死去之由申来候。野田菅沼助兵へ喧嘩にて死去之由申来候」とある。
「野田菅沼助兵へ」は、
・「野田菅沼氏へ助兵(じょへい。加勢)して」なのか
・「へ」は「と」の誤りで「菅沼助兵と喧嘩して」なのか
・「へ」は「ハ」の誤りで「菅沼助兵は喧嘩して」なのか
・「へ」は「ヱ」の誤りで「菅沼助兵衛、喧嘩して」なのか
のいずれかであると思うが、原文は「へ」としか読めない。
両書を合わせれば「西郷局は、野田菅沼助兵の喧嘩で、松平家忠家臣・稲吉兵衛に殺された」となろう。野田菅沼氏と、於愛の義父である西郷正勝の西郷谷西郷氏(東三河西郷氏)は仲が良かったので、野田菅沼氏の喧嘩の仲裁に入ったところ、喧嘩に巻き込まれ、稲吉兵衛に斬られたのであろうか? また、殺人犯の主君である松平家忠への事情聴取や、お咎めはなかったのか?
『家忠日記』によれば、松平家忠は、5月22日に駿府に向かい、23日には到着して、24日に柚木の龍泉寺で中陰(人が死んでから次の生を受けるまでの49日間)に弔うとあるが、『柳営婦女伝系』には「同廿四日、之を送葬」とあるので、葬儀が行われたのであろう。香典は200疋=2貫。26日には駿府を出て、28日には深溝に戻っている。
死因の詳細や、お咎めの有無については書かれていない。また。文面からは、自分の家臣が主君の側室を殺してしまったという緊張感が全く感じられない。
学者は、『家忠日記』の5月21日の記事
「会下僧衆、時にて御越し候。会下へ参り候。駿河若君様御袋・西郷殿、一昨日十九日に御死去候由、申し来り候。野田菅沼助兵衛、喧嘩にて死去候由、申し来り候。幡豆龍花院、小笠原彦左衛門所より、山もも越し候」
(会下僧(えげそう。寺を持たず、師のもとで学んでいる修行僧)達が、時(とき。午前中にとる食事)に来たので、一緒に食事をした。駿河若君様(長丸、後の徳川秀忠)の生母・西郷局が、一昨日の19日に死去されたという知らせが届いた。野田菅沼助兵衛が喧嘩して死去したという知らせが届いた。三河国幡豆郡の龍蔵院(「花」は翻刻ミス。愛知県西尾市西幡豆町の虎洞山龍蔵院)、小笠原彦左衛門のところから、山桃が贈られてきた。)
は、
「会下僧衆、時にて御越し候。会下へ参り候」
「駿河若君様御袋・西郷殿、一昨日十九日に御死去候由、申し来り候」
「野田菅沼助兵衛、喧嘩にて死去候由、申し来り候」
「幡豆龍蔵院、小笠原彦左衛門所より、山もも越し候」
の4つの出来事の時系列による列挙であって、相互関係は無く、西郷局の死因は書かれていないとする。
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