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平山優『新説 家康と三方原合戦』を読んでみた。(2/2)
■感想
本書の要旨は、私の解釈が正しければ、「堀江城を失うと物資が三河国から入らなくなるので、徳川家康は浜松城から出陣し、三方ヶ原の戦いになったとする新説の提起」だと思う。
この説を私が支持しない理由は2つ。
第1に、根拠①の『信長公記』の「堀江城」であるが、「堀江城攻め」は武田信玄が流したデマであり、武田信玄は実際には堀江城を攻めていないと思われること。(前述のように、地元では別働隊による陽動作戦が行われたとし、著者は武田本隊が攻めようとしたが、大雪で断念したとする。)
第2に、根拠②の大沢基胤の「三方ヶ原を封鎖すれば、掛川に在陣する敵軍(徳川軍)は難儀することだろう」(本坂峠ルートと宇利峠ルートの合流点である三方ヶ原を抑えれば、三河国から陸路で、掛川城を攻めている徳川軍への食料供給は困難になる)についてであるが、確かに「掛川城攻め」をしていた遠江国侵攻初期の永禄11年12月~翌永禄12年の秋(収穫期)までの期間は、兵糧を三河国から持ち込んでいたのであろうが、永禄12年の秋(収穫期)以降、「三方ヶ原の戦い」の時期は、兵糧は遠江国内から調達したので問題ない。(「三方ヶ原の戦い」は遠江国侵攻の5年後の話である。)
・永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ進攻。
・永禄11年(1568年)12月27日 徳川家康、掛川城攻め開始。
・永禄12年(1569年) 3月25日 井伊谷三人衆、堀江城攻め開始。
・永禄12年(1569年) 3月27日 徳川家康、堀川城を攻めて落とす。
・永禄12年(1569年) 4月12日 堀江城の大沢基胤、徳川家康に従属。
・永禄12年(1569年) 5月16日 今川氏真、掛川城から出る。
・永禄12年(1569年) 秋 とれた米を新領主・徳川家康へ。
・・・
・元亀3年 (1573年) 12月22日 三方ヶ原の戦い。
武田信玄の「堀江城攻め」が史実だとして、その理由を想像するに、
①三河国との補給路の分断のため(平山説)
②水路で三河国入りするため
③武田水軍の充実化のため
が思いつく。三河国から浜松城への食糧補給路が絶たれても、徳川家康は、遠江国内で食料を調達できるから①ではない。移動は陸路でも問題ないので②ではない。すると、消去法で③となる。そう思いながら文献調査を行ったところ、史実は、
④徳川家康を二俣城奪還に向かわせないために流した嘘の噂
だという。武田信玄は、「堀江城に向かう」と偽情報を流し、徳川家康の目を、二俣城から堀江城へそらさせようとしたのである。
細部については異論が多々あり、枚挙にいとまがない。
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たとえば、城に関すること。
「見付城(城之崎城)の実像」(pp.93-95)では、徳川家康が築城途中で放棄した城を「見付城(城之崎城)」としている。遠江国の国府が置かれた見付には、
・見付城&見付端城 (静岡県磐田市見付字古城。現・大見寺等)
・城之崎城(静岡県磐田市見付字城山。現・城山球場等)
の2城がある。
遠江国衙→遠江守護所→見付城→見付端城
旧塁(見付古城とも)→城之崎城
※旧塁:詳細不明。内山真竜『遠江国風土記伝』には、「国司・安田三郎義定、茲に住めるか」(寿永~建久年間(1182-1190)の遠江守・安田義定の居館跡ではないか)とある。「見付」の語源は「水浸け」であり、水害により、国衙が台地上に移転していた時期があったとも。
広大な遠江国府の一部が守護所として使われた。遠江&駿河国守護・今川範国が入ったが、後に今川一族の堀越氏が入った。見付城の落城後、「修復不能」として、横に見付端城を建てたが、やはり落城した。
遠江国に侵攻した徳川家康は「新しい領主だと知らせるために国府所在地(磐田市見付)に城を建てたい」と考えたが、旧・国衙の見付城&見付端城は、修復できる状態ではなかったので、城山の「城之崎城」を改修して入った。
この「城之崎城」は、名古屋市蓬左文庫所蔵『遠州見付古城図』の呼び名を用いて「見付古城」と呼ばれてきた。また、『三河記』の「永禄12年正月、家康公、見付の古城を破り、新城を築き、御所、堀川等、悉く営造し賜う」を、「徳川家康は、安田が築いた見付古城「旧塁」を破壊し、その地に、新たに見付新城「城之崎城」を築いた」と解釈されてきたが、最近は「国衙跡の見付古城(見付城&見付端城)は、修復できる状態ではなかったので、城山へ見付古城(見付城&見付端城)から使えそうな建築資材を運んで「見付新城(現・城之崎城)」を築いた」と解釈して、
・「見付古城」=「見付城&見付端城」
・「見付新城」=「城之崎城」
という呼称も用いられている。
『遠州見付古城図』に描かれた井戸は1つだけで、『遠江国風土記伝』には、「用水不足す」とあるが、本書では「特段、水の確保に不安を覚えるというほどではない」(p.93)とする。「徳川家康は、水不足で城之崎城を破棄した」とは、「井戸が1つしか無かった」という意味ではなく、「複数箇所で井戸を掘らせたが、塩水しか出てこなかった」という意味である。
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また、「浜松城が、石垣の城郭としての変貌を遂げるのは、天正18年(1590)、豊臣大名堀尾氏が入城して以後のこと」(p.98)とあるが、徳川家康の浜松城は「石垣城」と呼ばれていた。(石材調達を通しての本多作左衛門重次と豊田六郎左衛門との出会いの話が残っている。徳川家康時代の浜松城の論点は、石垣の有無ではなく、天守の有無である。)城之崎城(見付古城)にも、天竜川の川原石を使った丸石垣(横須賀城のような石垣)はあった。
さらに城でいえば、「武田氏は、遠江金谷にも城を築いたと伝わる。これらが事実かどうかは、確実な記録がみられず、確証できない」(p.52)とあるが、金谷の城とは「諏訪原城」のことで、記録は無くても物的証拠は出土している。
ただ頼め頼む八幡(やはた)の神風に
浜松が枝(え)は倒(たふ)れざらめや (武田信玄)
■参考記事
・「大河ドラマファン必読!「補給と援軍」という新視点から、謎多き戦い三方原合戦を読み解く新書が登場」
・「織田信長の仲介により甲三同盟を結んでいた家康と信玄。「補給と援軍」という新しい視点で、二人の決別と対決を検証する『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』が発売」
・「三方原合戦 家康、なぜ出陣? 歴史学者・平山さんが講演 浜松」
・「三方原出陣は要衝・堀江城の死守 大河考証・平山さんが新説」
・「アタクシの新刊『新説・家康と三方原合戦』」
アタクシの新刊『新説・家康と三方原合戦』で、最大の収穫であり、売りは、三方原合戦場の推定に史料的根拠を発見し、紹介したこと。祝田ではなく、大谷。これを見つけた時の驚きたるや。大沢基胤の「ワイが動けば、三方原の交通路封鎖なんざわけないでっせ」(意訳)と並んで、通説ぶち壊しの根拠どす😆
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) November 21, 2022
※城田涼子「城之日従境目城至宇津山城并尾奈之峯」
統計はとっていないが、NHK出版の本はミスが多い気がする。
『新説 家康と三方原合戦』は、ペラペラとめくっていたら、
>欠下城跡(愛知県新城市) p.114
が目に入って読む気が失せた。
『どうする家康』については、最初から読んでいたら、p.20に、
家康産湯の井戸(東照産湯井)
家康が岡崎城内で、天文11年(1542)12月26日に生まれた際、産湯の水が汲まれたと伝わる。市内の松平氏館近くにも、松平家代々の産湯として用いられたという産湯の井戸もあり(岡崎市。岡崎公園)
という解説があったので読む気が失せた。(最後の句点も無い。)
「家康産湯の井戸」は岡崎市にある。もう1つの井戸「神君産湯の井戸」は、「市内の松平氏館近く」ではなく、「岡崎市の北隣の豊田市の松平氏館の敷地内」にある。徳川家康が生まれたと聞き、竹筒に井戸水を入れ、馬を走らせて岡崎城に届けたと伝わる。
p.92『石川正四聞見集』は『石川正西聞見集』の誤り。
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