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「悪霊左府」「悪霊大臣」こと藤原顕光


  藤原師輔┳兼通─顕光─延子(985-1019。小一条院御息所)
      ┗兼家─道長

 藤原 顕光(ふじわら の あきみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の長男。官位は従一位・左大臣。
 父・兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟・兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 長和5年(1016年)、後一条天皇の即位により、敦明親王は皇太子にたてられるも、寛仁元年(1017年)皇太子を辞退し、小一条院となった。この時、藤原顕光の娘・藤原延子は悲しみ、
  雲居までたち上るべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな
と詠んだ。
 また、藤原道長は、小一条院を娘・藤原寛子の婿として迎え、厚遇したので、小一条院は、藤原寛子の住む高松殿に移り、堀河殿の藤原延子のことを顧みなくなった。このため、藤原延子は、悲嘆のあまり健康を損ね、寛仁3年(1019年)4月10日、この世を去った。父・藤原顕光の髪は一夜にして白くなり、藤原道長を怨んで道摩法師に呪詛させた。死後は怨霊となって藤原道長の家系に祟りをなし、「悪霊左府」と呼ばれた。

 長和5年(1016年)敦成親王が即位(後一条天皇)すると、東宮には約束通り敦明親王が立てられた。しかしながら、敦明親王は道長とは外戚関係がない上に、舅の顕光は頼りにならず、全く不安定な立場だった。
 翌寛仁元年(1017年)3月に既に道長が辞して空席になっていた左大臣に顕光は昇る。
 同年5月に失意の三条上皇が崩御すると、そのわずか3ヶ月後の8月に敦明親王は自ら東宮の辞退を申し出た。しかも、道長は敦明親王に報いるために上皇待遇として小一条院の称号を与え、さらに娘・寛子を娶らせた。こうして、敦明親王は延子と幼い敦貞親王を捨てて、寛子の許へ去ってしまった。夫を奪われた延子は絶望してほどなく病死する。この事件のために顕光は一夜にして白髪になってしまい、さらに道長を怨んで道摩法師に呪詛させたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■『愚管抄』「顕光大臣の怨霊」

(1)原文

 後一條院廿年。後朱雀院九年。コノ二所ハ上東門院〔彰子〕ノ御腹ニテヲハシマセバサウナシ。
 サテ一條院ノ女御ニ顕光大臣ノムスメヲマイラセラレタルハ。皇子ヲモエウマズ。サテ三條院ノ御子東宮ニタテ給ヒタルハ小一條院ナリ。コノ東宮ノ女御ニ又顕光大臣ノムスメヲマイラセタリケルガ。東宮ノ一條院ノ御子ニ後一條。後朱雀ナド出キ給ニシウヘハ。我御身モテアツカハレナントオボシメシテ。東宮ヲ辞シテ院号ヲ申テ。小一條院ト申テヲハシマシケル。御有心メデタクテ。御堂コレヲイトヲシミモテナシ申サレケルアマリニ。ムコニトリマイラセラレケレバ。モトノ女御。顕光ノヲトドノムスメ。エマイラヌヤウニナラセ給ケルヲ。心ウクカナシク思ヒナガラ。ナグサメ申サントテ。我ムスメニ。世ノナラヒニ候ヘバナゲカセ給ソナド申サレケレバ。物モ仰セラレズシテ。御火桶ニムカイテヲハシケルガ。火桶ノ火ノ灰ニウヅモレリケルガ。シハリシハリト鳴ケル。涙ノ落サセ給ヒケルガ。火ニカカリテナリケルヨト見テ。アナ心ウヤト悲ミフカクテ。ヤガテ悪霊トナリニケリトゾ人ハカタリ侍ルメル。サモアリヌベキ事ナリ。サレバ御堂ノ御アタリニハ。コノ例ハヤウヤウニ事モアリケレドモ。サマデノ大事ハエナキニヤ。コレラハ御堂ノ御トガトヤ申ベカランナレド。コレマデモスコシモ我ガアヤマチニハアラズ。タダ世ノ中ノアルヤウガ。カクテヨカルベクテナリユクトゾ。ウラウラトコソハ御堂ハヲボシメシケンヲ。アサクヲモイテ悪霊モイデクルナルベシ。
 後朱雀院東宮ニカハリイテ。其御子ニ後冷泉院ハ又御堂ノヲトムスメ内侍ノカミニテマイラセラレタリケルガ。ウミマイラセラレタリケレバ。サウナキコトニテ。ヤガテ位ニツカセ給ヒニケル也。顕光ハ悪霊ノヲトドトテ。コハキ御物ノケドモニテアリケリ。


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