「悪霊左府」「悪霊大臣」こと藤原顕光
藤原師輔┳兼通─顕光─延子(985-1019。小一条院御息所)
┗兼家─道長
長和5年(1016年)、後一条天皇の即位により、敦明親王は皇太子にたてられるも、寛仁元年(1017年)皇太子を辞退し、小一条院となった。この時、藤原顕光の娘・藤原延子は悲しみ、
雲居までたち上るべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな
と詠んだ。
また、藤原道長は、小一条院を娘・藤原寛子の婿として迎え、厚遇したので、小一条院は、藤原寛子の住む高松殿に移り、堀河殿の藤原延子のことを顧みなくなった。このため、藤原延子は、悲嘆のあまり健康を損ね、寛仁3年(1019年)4月10日、この世を去った。父・藤原顕光の髪は一夜にして白くなり、藤原道長を怨んで道摩法師に呪詛させた。死後は怨霊となって藤原道長の家系に祟りをなし、「悪霊左府」と呼ばれた。
■『愚管抄』「顕光大臣の怨霊」
(1)原文
後一條院廿年。後朱雀院九年。コノ二所ハ上東門院〔彰子〕ノ御腹ニテヲハシマセバサウナシ。
サテ一條院ノ女御ニ顕光大臣ノムスメヲマイラセラレタルハ。皇子ヲモエウマズ。サテ三條院ノ御子東宮ニタテ給ヒタルハ小一條院ナリ。コノ東宮ノ女御ニ又顕光大臣ノムスメヲマイラセタリケルガ。東宮ノ一條院ノ御子ニ後一條。後朱雀ナド出キ給ニシウヘハ。我御身モテアツカハレナントオボシメシテ。東宮ヲ辞シテ院号ヲ申テ。小一條院ト申テヲハシマシケル。御有心メデタクテ。御堂コレヲイトヲシミモテナシ申サレケルアマリニ。ムコニトリマイラセラレケレバ。モトノ女御。顕光ノヲトドノムスメ。エマイラヌヤウニナラセ給ケルヲ。心ウクカナシク思ヒナガラ。ナグサメ申サントテ。我ムスメニ。世ノナラヒニ候ヘバナゲカセ給ソナド申サレケレバ。物モ仰セラレズシテ。御火桶ニムカイテヲハシケルガ。火桶ノ火ノ灰ニウヅモレリケルガ。シハリシハリト鳴ケル。涙ノ落サセ給ヒケルガ。火ニカカリテナリケルヨト見テ。アナ心ウヤト悲ミフカクテ。ヤガテ悪霊トナリニケリトゾ人ハカタリ侍ルメル。サモアリヌベキ事ナリ。サレバ御堂ノ御アタリニハ。コノ例ハヤウヤウニ事モアリケレドモ。サマデノ大事ハエナキニヤ。コレラハ御堂ノ御トガトヤ申ベカランナレド。コレマデモスコシモ我ガアヤマチニハアラズ。タダ世ノ中ノアルヤウガ。カクテヨカルベクテナリユクトゾ。ウラウラトコソハ御堂ハヲボシメシケンヲ。アサクヲモイテ悪霊モイデクルナルベシ。
後朱雀院東宮ニカハリイテ。其御子ニ後冷泉院ハ又御堂ノヲトムスメ内侍ノカミニテマイラセラレタリケルガ。ウミマイラセラレタリケレバ。サウナキコトニテ。ヤガテ位ニツカセ給ヒニケル也。顕光ハ悪霊ノヲトドトテ。コハキ御物ノケドモニテアリケリ。
記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。