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西三河での一向宗の起源『三河念仏相承日記』

 今川領には臨済宗の寺が多く、徳川領には浄土宗の寺が多いと思われるが、西三河には浄土真宗の寺が多い。その繁盛の始まりは・・・

説①:文暦2年(1235年)、親鸞が妙源寺柳堂で説法した事。
説②:建長8年(1256年)10月13日、真仏らが矢作の薬師寺で説法した事。
説③:文安3年(1446年)、石川政康が蓮如に頼まれて三河国入りした事。

※説①は浄土真宗の、説②は高田派の、説③は本願寺派の起源である。

説①:妙源寺柳堂

 明眼寺(現・桑子山妙源寺。愛知県岡崎市大和町沓市場)は、安藤氏が河内国安部野から三河国桑子(愛知県岡崎市大和町桑子)に移住した時、僧・梅塘(ばいとう)に命じて、聖徳太子作の木像を安置する一堂を建立したことに始まると伝えられている。「太子堂」(堂の前に柳の木があったことから「柳堂」と呼ばれる)内には、聖徳太子像が安置されている。
 文暦2年(1235年)、親鸞上人(1173-1263)が関東から京都に戻る時、桑子城主・安藤薩摩守信平が境内の「柳堂」に招いて説法を受けて帰依したという。
 「三河一向一揆」の時、逃げてきた徳川家康を助けた。この時、源義経ゆかりの本尊が気に入り、貰い受けた礼に「源」の1字を授けたので、「明眼寺」から「妙源寺」に改名したという。

■「白本尊」と「くろ(黒、九郎)本尊」
【白本尊】(「桶狭間の戦い」直後、松平元康は大樹寺に逃げ込んだ。)此の寺(注:大樹寺)に一僧有り。元康を助けて苦戦しけるが、戦終えて之を索むるに其の人無し。人皆怪しみけるに、偶々白本尊の左耳に、矢痕のあるを見、先の僧は乃ち此の本尊なるを知り、是より人、益々帰依し、本尊の霊験を畏れあへり。元康も深く之を信じ、後に請うて岡崎に安置せりといふ。
【黒本尊】此の頃、又、桑子村妙源寺に、「九郎本尊」と云ふあり。一に「黒本尊」とも称す。昔者恵心僧都の源満仲が依嘱に依り、彫刻せるものにして、二尺六寸の弥陀立像なり。面容円満にして恰も生けるが如し。左馬頭源義朝、死して後、其の妾・常盤、之を持仏とせしを、牛若丸、鞍馬山に入る時、形見として牛若に与へしに牛若、奥州に下る時、参州矢作駅の長の女・浄瑠璃姫に与えぬ。因て之を「牛若君本尊」とも称す。其の後、牛若丸、人と成り、頼朝の代官となり、京都に上る時、改めて九郎本尊と称す。蓋し牛若、元服の名を九郎義経と云ふに取るなり。義経、京師を遁れ、西海に赴く後、浄瑠璃姫、尼となるに及んで、これを蓮真坊に伝へ、以後、妙源寺に安置せらる。一歳、家康夢告に因り、妙源寺に瞻礼せしが、有縁の仏なりと思ひ、田五十石を寄付し、此の仏を岡崎に迎へ、城中に安置して、二仏を併せ祀り、駿府に移るに及び、又、駿府に移し、終に、又、大樹寺に安置せしが、大坂陣の時は、了的廊山と云ふ僧、此の仏を奉じて後に従へりと云ふ。今見る所に依れば、厨子の右扉に家康の和歌あり。
 我弓馬の家に生、身軍神に興り、度度危難にあふといへども、
 九郎本尊の慈悲を以て免れし事、誠に広大の仏恩なり。
  量りなき命は弥陀の誓ひにて 山を切抜六字とはなる。

『大門御貫木由緒書』等

説②:薬師寺

『三河念仏相承日記』によれば、真仏聖人、顕智聖人、専信房が上洛し、下向の時、京都に置いてきた顕智聖人が来るのを矢作宿で待っている間、建長8年(1256年)10月13日から薬師寺で説法を始めたという。なお、薬師寺は、『滝山寺縁起』に見え、東海道と矢作川の交点に近い位置にあったらしい。今でも大雨の翌日には縄文土器を中心に採取できるという矢作川河床遺跡から、「…師寺…塔…朝臣」の篦書き(へらがき)銘をもつ平瓦が採取されている。
 また、大樹寺の薬師像は、桑子薬師堂に安置されていた仏像だという伝承がある。

永井邦仁「愛知県における中世瓦の展開とその特徴」

矢作川河床遺跡からは「□師寺」「東光坊良信」ほか人名などが凹凸面に刻書された平瓦(81)が連珠文軒平瓦(82)とともに採集されている。82は顎貼り付けもしくは文様面・顎貼り付け技法と推定され、13世紀中葉を中心とする。新行紀一氏は「□師寺」」が矢作の薬師寺とみて、『滝山寺縁起』の同寺関連記載が建長4年(1252)、弘安 2 年(1279)であることから、13 世紀半ばに瓦出土地点付近に薬師寺が存在したと推定している。

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