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『どうする家康』第20回「岡崎クーデター」に関する2つの注文

1.三河ことば指導様へ

亀姫 「母上と並んで寝るなんていつぶりかしら?」
築山殿「明日は戦になるかもしれぬ。今宵のうちによく寝ておくのじゃ」
亀姫 「はい。でも、慣れぬ場所ではなかなか」

このドラマのクーデターについては、疑問点が多い。

①なぜ武田勝頼は「まずは信康。そして、その母、築山殿を殺せ」と命じたのか。信康は岡崎城の本丸、築山殿は城外の築山屋敷で寝るので、兵を2つに分けなければならない。「本能寺の変」では織田信長(本能寺に宿泊)&信忠(妙覚寺にいたが二条新御所へ移動)親子が殺されたが、今回は信康を殺すだけで十分だと思う。「まずは信康。そして、わしがその父、徳川家康を倒す」でしょう。

「私達も城に入ります」

 どうも築山殿と亀姫は一緒に築山屋敷に住んでいるらしい。とは言え「母上と並んで寝るなんていつぶりかしら」というから、寝るのは別の部屋のようだ。
 それにしても、娘が
「母上と並んで寝るなんていつぶりかしら?」
と感慨深く尋ねているのに、無視して「早く寝ろ」と言うのは、母親としてどうなの? さすがに「今夜襲われるので、あなたを守るために一緒に寝るのです」とは言えないが。
 刺客は、殺害対象の築山殿は、築山御殿ではなく、岡崎城で亀姫と寝ているとの情報はつかんでいるだろう。亀姫はどうするつもりだったの? 武田勝頼の指示には無い、想定外の案件ですが。

②なぜ岡崎信康は、いつもの部屋で寝ていたのであろうか。襲われることが分かっているので、本多忠勝が代わりに寝ていればいい。危機管理が出来ていない。
 そもそもなぜ1人で寝ているのだろうか。五徳と一緒に寝なければ、嫡男が生まれない。

③時代考証の先生方にお聞きしたいのは「信康も亀姫も1人で寝てるの? 近くに侍女、部屋の外に寝ずの番の侍はいないの?」ってことです。

 史実に基づいて書いて欲しいと思う。史実は「事前に発覚し、刺客たちはそれぞれの屋敷で捕縛され、クーデターは起きなかった」である。
 また、史実の武田勝頼は「まずは信康。そして、その母、築山殿を調略せよ」と命じたように思われるが、「史実」を描きたくないのであれば、せめて「あり得る話」「視聴者が納得し、疑問を持たない話」にして欲しい。

それはそうと、台詞チェックの方にお聞きしたいのは、
「いつぶり」
である。「いつ以来」と言うべきを「いつぶり」と言うのは、現代の若者だけのはずだ。「なるかもしれぬ」も「なるやもしれぬ」、「今宵」は「今夜」(戦国時代の「今宵」は、朝に「昨夜」の事を言う時に使う)。

  言葉は大切。適切に!(自戒の意を込めて)

2.時代考証様へ

大岡忠賀「ずっと戦をしておる! ずっとじゃ! 織田信長にしっぽを振って、我らに『戦って死んで来い』とずっと言い続けておる! なんの御恩があろうか!」

 この台詞、ドラマ的には「戦い続き」が重要であり、この先は瀬名姫が望月千代と組んで戦いのない世を目指すストーリーになりそうである。
 歴史的には「なんの御恩があろうか」が重要だと思われる。なお、この時代の「御恩」とは、「(徳川家康に抱く)恩義」(気持ち)ではなく、「(徳川家康に奉仕した見返りとしての)恩地」(領地)を指す。(「織田信長にしっぽを振っている」と憎む徳川家康への恩義であれば「恩」であって、「御」はつけない。)

 私が時代考証の先生方にお聞きしたいのは、岡崎クーデターの動機が、これで合っているかどうか(史実かどうか)ではなく、大岡忠賀が「戦いばかりで嫌だ」と言うかどうか、あり得るかどうかという点である。大岡忠賀であれば、「戦いが無くて嫌だ」と言うのではないだろうか? 時代考証というのは、史実ではないことだけではなく、あり得ないことも脚本家に注意する立場だと思うのですが、いかが?

 「三河武士は徳川の忠犬」と罵られるが、三河武士は、それを誇りにしている。今回、大岡忠賀らが主君・徳川氏を裏切った。これはあってはならないことであり、史実が矮小化されたという。
 では、なぜ浜松の三河武士ではなく、岡崎の三河武士が寝返ったのか?  
 それは、浜松の三河武士と岡崎の三河武士には差があったからだと思われる。
 大岡忠賀は「(徳川家康は)織田信長にしっぽを振って、我らに『戦って死んで来い』とずっと言い続けておる!」と怒る。とはいえ、武田方に寝返れば、武田勝頼の「戦って来い」という命令に従って戦い続けることになる。命令者が替わるだけで、戦うことには変わりないように思われるが、実は違う。

<三河国(岡崎信康)>
・東:遠江国(徳川領)=味方
・西:尾張国(織田領)=味方
・南:三河湾(伊勢湾)=海
・北:信濃国(武田領)=敵

<遠江国(徳川家康)>
・東:駿河国(武田領)=敵
・西:三河国(徳川領)=味方
・南:遠州灘(太平洋)=海
・北:信濃国(武田領)=敵

 岡崎(三河)は東西に味方がいて、敵は北だけの平和な国である。戦いは無い。(だから若い信康でも経営できる。)今回、北の武田氏が三河国の足助城を攻めてきたので、戦いに行って負けた。勝ったとしても、味方を助けただけであって、手柄を立てても、新恩(新しい領地)はもらえない。武田領に侵攻して土地を奪わないと新恩はもらえない。それに、もらったとしても、三河の北の武田領は田畑(平野)ではなく、山だ。
 大岡忠賀は「浜松(遠江)に配属された三河武士は、東進して武田領を奪い、新恩をもらえる。手柄をあげて出世もできる。実にうらやましい」とか「武田方に寝返って尾張国へ侵攻して手柄をあげれば、濃尾平野に新恩をいただける。三河に居て、武田軍の南下を恐れながら暮らしているよりずっといい」と思っていたと、私は思う。
 ちなみに寝返った山田八蔵は、三河国内に500石の恩地(新領)をもらっている。刺客たちの領地が没収されて山田八蔵に与えられたのであろう。

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