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『逃げ上手の若君』に登場する諏訪頼重

 諏訪頼重には、南北朝期の人物と、戦国期の人物がいますが、この記事で扱うのは南北朝期の諏訪頼重の方です。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります。

諏訪 頼重
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 建武2年8月19日(1335年9月6日)
改名 盛継→頼重→照雲(法名)
別名 盛高?、照雲入道
官位 従五位下、三河権守
主君 北条氏
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪盛重?、諏訪宗経(直性入道)?、諏訪信重?
兄弟 重尚、頼直、敦禎、頼盛、顕重、継光?
子     時継、高重、高継、萬歳 

諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。諏訪大社の大祝とされるが不詳。父親については諸説ある。
生涯
 鎌倉時代において、諏訪氏は代々信濃守護の北条氏の御内人であった。東勝寺においては諏訪一門の諏訪時光(円光入道)が自刃している。
 鎌倉幕府滅亡後、建武政権によって新たに信濃守護に任じられた小笠原貞宗と諏訪氏とは対立関係になり、小笠原氏の支配に対する不満もあって、やがて頼重・時継父子は得宗北条高時の遺児時行を奉じ、中先代の乱を起こした。頼重は三浦氏などの援助により、渋川義季、岩松経家、今川範満、小山秀朝などを敗死させ、ついには足利直義を逃走させ、鎌倉を一時占領するが、京より派遣された木曾(沼田)家村率いる追討軍に大敗し、頼重は子・時継ら43人と勝長寿院で自刃した。
 『諏訪史料叢書』巻27に記載されている系図によると、北条時行を鎌倉から脱出させ信濃に連れ出した「諏訪盛高」は頼重と同一人物であるとされる。諏訪家の家督(大祝職)は、孫の頼継(時継の子)が継承した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 諏訪頼重は、『逃げ上手の若君』においては、重要かつ特異な人物ですが、それにしては実に短い。
『ウィキペディア(Wikipedia)』には「父親については諸説ある」として複数の名前を載せていますが、母親については諸説すらないのか空欄です。

『諏訪家譜』
系図によっては「頼重」の初名を「盛高」ではなく「盛継」とする。

★『諏訪氏家譜』(諏訪氏=清和源氏満快流説 or 金刺氏):武士の系譜

  諏訪信濃守宗経─三河守盛高(頼重)┳時重
                   ┣忠満
                   ┗頼継─頼隣

★『神氏系図』(諏訪氏=タケミナカタ説):大祝「神氏」の系譜
 「我(諏訪神)に体なし、祝をもって体(現人神)となす」

  建御名方命…大祝盛高(頼重)┳大祝時継─大祝頼継─貞信
                ┣高重(小次郎)
                ┣高継
                ┣貞顯(四郎)
                ┗万歳


諏訪頼重について書くべきは、

1333年5月22日 鎌倉幕府滅亡。北条時行を鎌倉から信濃へ逃がす。
1335年8月19日 勝長寿院(神奈川県鎌倉市雪ノ下)で自害。

だけ?
「中先代の乱」を成功させるためだけに生まれてきたの?

 按ずるに、「大祝は諏訪から出てはならない」というルールがあったので、諏訪頼重は「中先代の乱」を成功させるために、大祝を次の代に譲ってから鎌倉へ北条時行を迎えに行ったのであって、それ以前は鎌倉ではなく、諏訪にいて神事を粛々と執行していただけなので、特に目立った記録はないと思われる。

★「諏訪照雲頼重の供養塔」(長野県茅野市宮川)

 この地は、もと「大祝様御屋敷地」といわれた神殿に近く、明治初年に五輪塔及び多宝塔等の石造物残欠が多数出土し、付近住民によって私有地の一角に保存されてきた。
 当時は五輪塔火部に「照雲」との銘が判読できたという伝承があり、中世前期の形式をそなえた貴重な歴史的遺物である。
 照雲とは上社大祝をつとめた三河入道頼重のことで『太平記』にも名をとどめ、建武2年(1335)7月14日に北條氏再興をはかってこの地に決起し、北條時行(高時の遺児亀寿丸)を擁立して「中先代の乱」を戦い鎌倉を占拠した信濃勢の総大将であった。
 しかし、足利勢の大軍に敗退し、8月19日、遂に勝長寿院大御堂にて壮絶な自害をし果てたと記録されている。
 近年これら石造物も風化損傷がひどくなり地元保存会が補修整備を行ったものである。
 平成4年3月
                          安国寺史友会

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