諏訪頼重には、南北朝期の人物と、戦国期の人物がいますが、この記事で扱うのは南北朝期の諏訪頼重の方です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります。
諏訪頼重は、『逃げ上手の若君』においては、重要かつ特異な人物ですが、それにしては実に短い。
『ウィキペディア(Wikipedia)』には「父親については諸説ある」として複数の名前を載せていますが、母親については諸説すらないのか空欄です。
★『諏訪氏家譜』(諏訪氏=清和源氏満快流説 or 金刺氏):武士の系譜
諏訪信濃守宗経─三河守盛高(頼重)┳時重
┣忠満
┗頼継─頼隣
★『神氏系図』(諏訪氏=タケミナカタ説):大祝「神氏」の系譜
「我(諏訪神)に体なし、祝をもって体(現人神)となす」
建御名方命…大祝盛高(頼重)┳大祝時継─大祝頼継─貞信
┣高重(小次郎)
┣高継
┣貞顯(四郎)
┗万歳
諏訪頼重について書くべきは、
1333年5月22日 鎌倉幕府滅亡。北条時行を鎌倉から信濃へ逃がす。
1335年8月19日 勝長寿院(神奈川県鎌倉市雪ノ下)で自害。
だけ?
「中先代の乱」を成功させるためだけに生まれてきたの?
按ずるに、「大祝は諏訪から出てはならない」というルールがあったので、諏訪頼重は「中先代の乱」を成功させるために、大祝を次の代に譲ってから鎌倉へ北条時行を迎えに行ったのであって、それ以前は鎌倉ではなく、諏訪にいて神事を粛々と執行していただけなので、特に目立った記録はないと思われる。
★「諏訪照雲頼重の供養塔」(長野県茅野市宮川)