『家忠日記』に見る「神君伊賀越え」
「神君伊賀越え」は、「徳川家康三大危機」(三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、神君伊賀越え)の中で最も危険だったと『徳川実紀』にある。(個人的には、最も危険だったのは「小牧・長久手の戦い」だと思うが。)
「神君伊賀越え」については諸説あり、正確な「神君伊賀越え」の記録は『家忠日記』だというが、筆者の深溝松平家忠は「神君伊賀越え」のメンバーではなく、深溝(愛知県額田郡幸田町深溝)にいたので、これまで、「神君伊賀越え」のコース解説には『石川忠総留書』が使われてきた。
今回、改めて『家忠日記』を読んでみた。
原本は、私の能力では読めないが、幸いなことに、多くの翻刻(写本)があるので、見比べながら読んでいく。
・4日の記事に「信長之儀、御父子秘定候由、岡崎、緒川より申來候」とあり、学者は「織田父子の死を隠しておくよう、岡崎からも、緒川からも言われた」と訳している。下の翻刻では「信長之儀、御父子必定候由、岡崎、緒川より申來候」としている。これだと「織田父子が死んだと、昨日、大野から連絡が来た時には我が耳を疑ったが、今日になって織田父子の死は確実だと岡崎からも、緒川からも連絡が来た」となる。私も翻刻者の「秘は必の誤字説」に賛同する。さらに言えば、「伊勢地」も「伊勢路」の方がいいかもしれない。
・下の翻刻では、3日の上注「てふ、ふかうすへかへり候」と、4日の上注「此方御人数、雑兵共二百人うたせ候」が、共に4日の本文のあとに加えられている。
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