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司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑦

尾張の新興大名は織田氏である。
「三河はわしの草刈り場だ」
 と、織田信秀(信長の父)は称していたが、かれはしばしば軍勢を催しては、三河との国境の矢作川をわたって三河に侵入した。茅ぶきの岡崎城にいる三河岡崎衆は、そのつど矢作川流域の野をかけまわって尾張からの侵入軍と戦わねばならない。
「尾張衆の具足のきらびやかさよ」
 と、この当時三河ではいわれた。 尾張は一望の平野で灌概ははやくから発達し、海にむかっては干拓がすすみ、東海地方きっての豊饒な米作地帯であるだけでなく、街道が四通八達して商業がさかんであった。それからみれば隣りの三河は大半が山地で、
 ──人よりも猿のほうが多い。
 と尾張衆から悪口をいわれるような後進地帯であった。 ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、利口者の多い尾張衆とくらべてきわだって異質であった。犬のなかでもとくに三河犬が忠実なように、人もあるじに対して忠実であり、城を守らせれば無類につよく、戦場では退くことを知らずに戦う。この当時すでに、
 ──三河衆一人に尾張衆三人。
 ということばすらあったほどで、尾張から大軍が侵入してくるときも、三河岡崎衆はつねに少数で奮戦し、この小城をよくもちこえた。守戦でのつよさではかれらは天下無類というふしぎな小集団であった。ついでながらこの小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになったのは、奇妙というほかない。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』

※三河はわしの草刈り場だ。:出典不明
※三河との国境の矢作川:三河国と尾張国の国境は境川である。安祥城を落とした織田信秀の脳内では、三河国と尾張国の国境は矢作川だったということであろう。
※尾張衆の具足のきらびやかさよ。:出典不明
※人よりも猿のほうが多い。:出典不明
※犬のなかでもとくに三河犬が忠実:出典不明。「三河犬(みかわいぬ)」は三河国産の猟犬。性格は忠実で、飼い主以外には懐き難いという。三河国といえば、糟目犬頭神社(愛知県岡崎市)の飛犬頭伝説の犬は猟犬である。三河犬だったのかな? なお、当時の尾張兵は、三河兵を「犬」と呼んでいたという。
※三河衆一人に尾張衆三人。:出典不明

・太田満明「司馬遼太郎 『覇王の家』とその依拠史料

  『覇王の家』の依拠史料38冊を読み終えていないので、出典は不明であるが、
「三河兵1人は尾張兵3人に匹敵する」
「甲州兵1人は尾張兵5人に匹敵する」
は、戦国オフでもよく聞く言葉である。こういう言葉は江戸時代の「徳川中心史観」によるものだと思っていたが、『覇王の家』には「この当時すでに」とある。「この当時」とは、「松平清康(1511-1535)が織田信秀(1510-1551)と争っていた時代」ということであろうか。(足利義昭が入洛して織田信長が各国から人を集めて二条城を築いている時、「A国は強い。B国は弱い」と言って、言い争いになり、死者が出たとは聞いている。このため、織田信長は規律を厳しくし、規律に反すると、その場で切り捨てられたようである。各国から集まった気質の違う人間を1つにまとめるためには、細かなルールを決めて遵守させることが必要なのだ。なお、義理深いことで知られる「三河武士」の徳川家康は、豊臣秀吉に統治の極意を聞かれて、「厳しいルール」ではなく、「義理の当る所はなべて人の従ふもの也」と答えている。)

 「尾張の虎」こと織田信秀は、「美濃の蝮」こと斉藤道三に何度も負けた。敗戦の理由を、私は「尾張兵が弱いから」ではなく、「織田信秀が弱いから(織田信秀の作戦負け)」だと思っている。(尾張兵が弱ければ、桶狭間で尾張兵は全滅したであろう。)

 尾張人も、三河人も、甲斐人も同じ日本人であるから、個々の腕力は、生物学的には大差ないはずである。力に差が出るとしたら、大将の手腕(兵士の使い方、作戦)と兵士個々人の能力(普段の稽古、筋肉の鍛錬)の差によるものであり、生育環境(風土)がどの程度影響するのかは分からない。

 司馬遼太郎は「尾張国は(知多郡以外は)肥沃な平野で、商業が発達し、領民は金持ちで、ハングリー精神に欠ける」ので尾張兵は弱く、「三河国は山が多く、商業が未発達で、領民は貧しく、ハングリー精神が旺盛」なので三河兵は強いと分析している。(司馬遼太郎は大阪府の薬局の次男であり、彼の思想には「商」が1つのキーワードになっている。「商」は「武」に反し、「商」が盛んになれば「武」はすたれるという。)

 さらに司馬遼太郎は「三河気質とは、極端な農民気質で、律儀で、篤実で、義理に厚かった」(だから三河兵は強かった)とし、「この小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになった」と言う。(私は、日本人が律儀で、篤実で、義理に厚いのは、三河気質が全国に広まったのではなく、①日本(温帯の国々)は基本的には農業国で、日本人は律儀で、篤実で、義理に厚い農民気質の持ち主、②三百年間日本国を支配した徳川氏が儒教を推奨した、③日本人の4割が「管理するのもされるのも好き(でコレクティブな戦闘が得意)」というA型(日本人のABO式血液型の割合は、A型40%、O型30%、B型20%、AB型10%)だからだ、と思っています。血液型は遺髪、遺骨、血判などから分かります。豊臣秀吉はO型、武田信玄はA型です。証拠は有りませんが、織田信長はB型、徳川家康はA型だと推測されています。)

 いずせにせよ、尾張兵が弱ければ弱いほど、「そんな弱兵を率いて天下を取った織田信長は凄い」ということになります。(織田信長の時代には、個々の力の問題から、「兵士を何万人集められるか」「鉄砲を何丁集められるか」という人数、装備の問題に変わったとも思われるが。)

◆「茅ぶきの岡崎城」「この小城をよくもちこえた」

 徳川家康の時代も岡崎城は茅葺であったという。岡崎在城時代の徳川家康にとって城とは「風雨を防ぐ場所」「食料庫」「金庫」「武器庫」にすぎない。
 ──それでは簡単に攻め落とされるのでは?
 松平3代信光は岩津城を居城とした。周囲に「岩津七城」と呼ばれる城を配した堅固の城であった。しかし、敵が岩津に向かってくると知ると、篭城戦には持ち込まず、必ず出陣して井田野で戦った。松平氏は篭城戦を1度もしたことがない。城を攻められる前に出陣して野戦で決着をつけたからである。「野戦が得意」と言われた徳川家康も、武田信玄が侵攻してくると、「岡崎の井田野に相当するのは、浜松では三方原」と言わんがばかりに出陣している。松平家は、篭城戦をしないので、築城には他家よりもお金をかけなかったと思われる。岡崎城に関しては、南に乙川、西に矢作川があるので、防御施設(堀)を北と東に掘ればよい。(北の堀は、岡崎城を築いた西郷氏が(北の岩津の松平氏からの攻撃に備えて)既に掘っていた。)
 「小城」を「大城」に変えたのは徳川家康に替わって城主となった徳川信康である。彼は、武田氏の攻撃を防ぐため、敷地を広め、家臣たちに城内に屋敷を建てさせた。ところが家臣たちは「領地の屋敷の維持だけでも大変なのに、もう1軒建てて、その屋敷も維持せよとは・・・」と反発し、浜松城主の徳川家康に「なんとかして欲しい」と訴えたという。

◆尾張衆の具足のきらびやかさよ。

 尾張国では商業(貿易)が盛んであった。「こんな具足を身に着けたい」と思った通りの具足が手に入ったであろう。
 三河国の若者は「農民になるか、武士になるか」と選択を迫られたであろうが、尾張国の若者には「農民になるか、武士になるか、商人になるか、職人になるか」と幅広い選択肢が用意されており、
「武士にならねばならぬ」
ではなく、
「別に武士が嫌になったら・・・になればいい」
という甘い気持ちが「尾張兵は弱い」という評価に繋がったのかもしれない。
 江戸時代でも、江戸幕府が質素倹約を掲げて重農主義をとったのに対して、尾張藩は派手好きで重商主義を推進したという。尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の徳川御三家の中で、尾張徳川家だけ将軍を輩出できなかったのは、「尾張兵は弱い」という評判や、この江戸幕府の方針に合わない尾張気質のせいか?

 『人国記』によれば、三河気質は「其の言葉、賤しけれども、実義なり。人と物を談ずるに、其の事とけずと云う事無し」(言葉は、汚いが心は込められている。話せば分かる)、嘘もつかない。とはいえ、偏屈で我を通して命を失った人も多いと言う。

■『旧人国記』
 三河の国の風俗気勝(すぐ)れて、人の長(た)け、10人に7、8人は伸びず。其の言葉、賤しけれども、実儀なり。人と物を談ずるに、其の事とけずと云う事無し。若し違却する事あれば、その子細を理る風俗にして、子は親を恥ぢ、親は子を恥ぢて、虚談する事を禁ずると云へども、偏屈にして、我言を先とし、人の述ぶる処を待たずして、是を談じ、命を終の族多し。亦、自然と気質の邪僻少なき人もあり。私心を知って吾に勝る人あれば、諸人、是を崇敬する形儀なり。別而北三州の人尖なり。尾州に隣ると云へども、其の気質、亦、勝りたり。武士の風儀、善多くして悪少なし。女も健気にして恥を知れり。

■『新人国記』
 当国の風俗気勝れて、人の長け、10に7、8伸びず。その言葉賤しけれども、実義多し。事を約して、遂げざる事なし。親子の間も、互に恥ぢらい、虚談する事なし。然れども偏屈にして、我(が)を立て、人の言を聞き入れず。これによりて命を捨つる者も、間々(まま)これあり。武士の風義、善多くして、女も健気にして恥を知る所なり。

※『人国記(じんこくき)』:日本各国人の気質を地理的環境と関連させながら論じた風土記。『人国記』(区別するため『旧人国記』)は、室町時代末期の本と考えられるが、鎌倉時代中期に北条時頼が書いたと伝えられている。『新人国記』は、関祖衡が改訂して元祿14年(1701年)に刊行。

 ところで、「尾張人は派手好きで、三河人は質実剛健」という違いは現在でも存在する?

参考記事:『タウンネット』
「尾張VS三河!? 愛知県では「戦国時代」が今も続いている...のかも」
https://j-town.net/2017/08/08247147.html?p=all

◆おまけ「徳川家康の宝は家臣」

 オリンピックを見て思ったのは、「メダリストの実力差はあまりない」ということ。では、なぜメダルの色を変えたのかといえば、コーチの作戦ミスか、「勝ちたい」という気持ちの差かと。(「勝ちたい」という気持ちが大きすぎても空回りしてミスしてしまうが。)
 同じ力の軍団が戦えば、相討ちになるであろうが、どちらかが勝った場合、織田信長にしろ、徳川家康にしろ、勝因は「天運」と答えるであろう。私は、勝因は「気持ち」だと思う。一向一揆で、ろくな武具を持たない農民が武士と渡り合えたのは「信仰心」であり、徳川軍は「主君のために」と戦ったから強かったのであろう。
 関白(豊臣秀吉)が諸将の前で所持する宝物を披露し、君(徳川家康)に「どんな宝物を持っているか?」と聞くと、徳川家康は「私のためなら死ねると言ってくれている約500人の家臣」と答えたという。(悔しく思ったのか、豊臣秀吉は、徳川家康の家臣たちを引き抜こうとしたが、成功したのは石川数正のみであるが、山岡荘八は、「石川数正は、引き抜かれたのではなく、徳川家康がスパイとして送り込んだ」とする。)

■『東照宮御実紀』
 関白あるとき君をはじめ毛利、宇喜多等の諸大名を会集せし時、わが宝とする所のものは、虚堂の墨跡、粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立てさて、各にも「大切に思はるゝ宝は何々ぞ」ととはれしかば、毛利、宇喜多等、所持の品々を申けるに、君ひとり黙しておじゃしければ、「徳川殿には何の宝をか持せらるゝ」といへば、君、「それがしはしらせらるゝ如く三河の片田舎に生立ぬれば、何もめづらかなる書画調度を蓄へしことも候はず。さりながら某がためには水火の中に入れも命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て第一の宝とは存ずるなり」と宣へば、関白いさゝか恥らふさまにて、「かゝる宝はわれもほしきものなり」といはれしとぞ。
 また秀吉、ある時、君に尋進らせしは、「応仁このかた乱れはてたる世の中をおほかた伐従へつれど、いまだ諸大名己がじゝ心異にして一致せざるをいかゞせん」とあれば、君、「おほよそ萬の事みなおはりはじめ相違なきをもてよしとす。義理の当る所はなべて人の従ふものなり」と御答ありしとぞ。(『寛元聞書』『武野燭談』)

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