五大院宗繁 4 レコの館(やかた) 2024年7月18日 17:15 五大院宗繁は、北条相模太郎邦時&北条相模次郎時行兄弟の叔父(母の兄)とも祖父(母の父)ともいう。 鎌倉幕府滅亡時、北条邦時は五大院宗繁に預けられるが、五大院宗繁は北条邦時を敵に売った。これで出世できるかと思いきや、軽蔑され、乞食になって野垂れ死んだという。 鎌倉幕府滅亡後、北条高時の遺児・邦時はどうなった?~五大院宗繁の裏切り 新田義貞の鎌倉攻めにより、北条高時や多くの北条一門が鎌倉東勝寺で自害し鎌倉幕府は滅亡しました。漫画『逃げ上手の若君』の主人 nihonsizatugaku.net ■解説動画■『太平記』「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」(五大院右衛門宗繁が北条相摸太郎邦時を賺(だま)した事)義貞已に鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇国の大名・高家、手を束ね膝を不屈と云者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如此。況や只今まで平氏の恩顧に順て、敵陣に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血を淋き、二度は人に契らじと、髪をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を令失。悲哉、義を専にせんとして、忽に死せる人は、永く修羅の奴と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥を忍で苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。何に付ても弐ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ、如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝」と相摸入道宣ければ、宗繁、「仔細候はじ」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。角て二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東皆源氏の顧命に随て、此彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者は忽に被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いや/\果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、此人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐ろなき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、或夜彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知候はじとこそ存じて候に、如何して漏聞へ候けん、船田入道明日是へ押寄候て、捜し奉らんと用意候由、只今或方より告知せて候。何様御座の在所を、今夜替候はでは叶まじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給候へ。宗繁も御伴申度は存候へ共、一家を尽して落候なば、船田入道、さればこそと心付て、何くまでも尋求る事も候はんと存じ候間、態御伴をば申まじく候」と、誠し顔に成て云ければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の夜半計に、忍て鎌倉を落玉ふ。昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。五大院右衛門は、加様にして此人をばすかし出しぬ。我と打て出さば、年来奉公の好を忘たる者よと、人に指を被差つべし。便宜好らんずる源氏の侍に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急船田入道が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出て候へ、他の勢を不交して、打て被出候はゞ、定て勲功異他候はんか。告申候忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん」と云ければ、船田入道、心中には悪き者の云様哉と乍思、「先子細非じ」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行ける道を遮てぞ待せける。相摸太郎道に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅猿げなる窶(やつ)れ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛で下り、透間もなく生捕奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。昔程嬰が我子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。 「太平記」五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(その1) | Santa Lab's Blog 義貞よしさだすでに鎌倉を鎮しづめて、その威ゐ遠近ゑんきんに振るひしかば、東八箇国の大名・高家かうけ、手を束つかね膝を不屈と santalab.exblog.jp 「太平記」五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(その2) | Santa Lab's Blog 中にも五大院ごだいゐんの右衛門うゑもんの尉じよう宗繁むねしげは、故相摸入道にふだう殿の重恩ぢゆうおんを与へたる侍さぶらひな santalab.exblog.jp 「太平記」五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(その3) | Santa Lab's Blog かくて二三日を経て後、平氏悉く滅びしかば、関東くわんとう皆源氏の顧命こめいに随がつて、ここかしこに隠れ居ゐたる平氏の一族ど santalab.exblog.jp 「太平記」五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(その4) | Santa Lab's Blog 昨日きのふまでは天下の主たりし相摸入道にふだうの嫡子にてありしかば、仮初めの物詣ものまうで・方違かたたがひと云ひしにも、御 santalab.exblog.jp 「太平記」五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(その5) | Santa Lab's Blog 五大院ごだいゐんの右衛門うゑもんは、加様かやうにしてこの人をば賺すかし出だしぬ。我と打つて出ださば、年来奉公の好よしみを忘 santalab.exblog.jp 「太平記」五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(その6) | Santa Lab's Blog 俄にはかの事にて張輿はりごしなんどもなければ、馬に乗せ舟の縄なはにてしたたかにこれを誡いましめ、中間ちゆうげん二人ににんに santalab.exblog.jp ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! 記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。 チップで応援する #鎌倉 #逃げ上手の若君 #五大院宗繁 4