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徳川家康の妻子と督子の生年

1.徳川家康の妻


「オットセイのおかげで生涯現役だった」といわれる徳川家康の妻の数には17人説~23人説があります。「正妻」(江戸時代の「正室」)は瀬名姫(築山御前)と朝日姫(駿河御前)の2人。「別妻」と「妾」(妻ではない女性。愛人)については研究者によって異なる(たとえば「西郡局」は「鵜殿長忠の養女で別妻」とも、「瀬名姫の侍女で妾」とも)ので、全員「側室」にしました。(「正室」「側室」という用語は当時の用語ではなく、江戸時代の用語です。)

・戦国時代:一夫多妻多妾制(多くの妻のうち、1人の正妻以外は別妻)
・江戸時代:一夫一妻多側室制(1人の妻(正室)以外は側室)

【正室(正妻)】築山殿(清池院):関口氏純の娘
【継室(正妻)】朝日姫(南明院):豊臣秀吉の妹

【側室(別妻)】西郡局(蓮葉院):鵜殿長忠の養女(加藤義広の娘)
【側室(別妻)】下山殿(長慶院):秋山虎景(武田家臣)の娘
【側室(別妻)】蔭山殿(養珠院、於万):正木頼忠(里見家臣)の娘
【側室( 妾 ) 】小督局(長勝院、於万の方):永見吉英(知立神社)の娘
【側室(別妻)】西郷局(宝台院、於愛の方):戸塚忠春(今川家臣)の娘
【側室( 妾 ) 】お竹(良雲院):市川昌永(武田家臣)の娘
【側室(別妻)】茶阿局(朝覚院):山田八左衛門(金谷宿の郷士)の娘
【側室( 妾 ) 】お夏(清雲院):長谷川藤直(北畠家臣)の娘
【側室(別妻)】お梶(英勝院):太田康資(北条家臣)の娘
【側室( 妾 ) 】お梅(蓮華院):青木一矩(豊臣家臣)の娘
【側室(別妻)】阿茶局(霊光院、須和):飯田直政(今川家臣)の娘
【側室( 妾 ) 】お牟須(正栄院):三井吉正(武田家臣)の娘
【側室(別妻)】お亀(相応院):志水宗清(石清水八幡宮社人)の娘
【側室( 妾 ) 】お仙(泰栄院):宮崎泰景(武田家臣)の娘
【側室(別妻)】お六(養儼院):黒田直陳の娘
【側室( 妾 ) 】お久(普照院):間宮康俊(北条家臣)の娘

2.徳川家康の子


徳川家康の子の数は、16人(男11人、女5人)で確定だという。

長男・松平信康(母:築山殿):切腹(生存説あり
二男・羽柴(結城)秀康(母:小督局):豊臣秀吉の養子→結城晴朝の養子
三男・徳川秀忠(母:西郷局):江戸幕府第2代将軍
四男・松平忠吉(母:西郷局):尾張清洲藩主
五男・松平信吉(母:下山殿):藤井松平信吉と区別して武田信吉
六男・松平忠輝(母:茶阿局):長沢松平家11代宗主
七男・松平松千代(母:茶阿局):長沢松平家10代宗主
八男・平岩仙千代(母:お亀):平岩親吉の養子。夭折(享年6)。
九男・徳川義直(母:お亀):尾張徳川家祖
十男・徳川頼宣(母:お万):紀州徳川家祖
11男・徳川頼房(母:お万):水戸徳川家祖

長女・亀姫(盛徳院。母:築山殿) :奥平信昌の室
二女・督姫(良正院。母:西郡局) :北条氏直病死後、池田輝政の室
三女・振姫(正清院。母:下山殿) :蒲生秀行急逝後、浅野長晟の室
四女・松姫(母:お梶):夭折(享年4)
五女・市姫(清雲院、一照院。母:お梶):夭折(享年3)


3.16人の子は何歳の時の子か?


天文11年(01)徳川家康誕生
天文12年(02)
天文13年(03)
天文14年(04)
天文15年(05)
天文16年(06)
天文17年(07)
天文18年(08)
天文19年(09)
天文20年(10)
天文21年(11)
天文22年(12)
天文23年(13)
天文24年/弘治元年(14)
弘治02年(15)
弘治03年(16)瀬名姫(正室・築山殿)と結婚
弘治04年/永禄元年(17)
永禄02年(18)長男・信康(母:築山殿)誕生
永禄03年(19)長女・亀姫(母:築山殿)誕生
永禄04年(20)
永禄05年(21)
永禄06年(22)
永禄07年(23)
永禄08年(24)
永禄09年(25)
永禄10年(26)
永禄11年(27)
永禄12年(28)
永禄13年/元亀元年(29)瀬名姫(正室・築山殿)と離婚
元亀02年(30)
元亀03年(31)
元亀04年/天正元年(32)
天正02年(33)二男・秀康(母:小督局)誕生
天正03年(34)
天正04年(35)二女・督姫(母:西郡局)誕生
天正05年(36)
天正06年(37)
天正07年(38)三男・秀忠(母:西郷局)誕生
        長男・信康&築山殿自害
天正08年(39)四男・忠吉(母:西郷局)誕生
        三女・振姫(母:下山殿)誕生
天正09年(40)
天正10年(41)
天正11年(42)五男・信吉(母:下山殿)誕生
天正12年(43)
天正13年(44)
天正14年(45)正室・朝日姫(豊臣秀吉の妹。43歳)と結婚
天正15年(46)
天正16年(47)
天正17年(48)
天正18年(49) 正室・朝日姫病没(享年47)
天正19年(50)
天正20年/文禄元年(51)六男・忠輝(母:茶阿局)誕生
文禄02年(52)
文禄03年(53)七男・松千代(母:茶阿局)誕生
文禄04年(54) 八男・仙千代(母:お亀)誕生
         四女・松姫(母:お梶)誕生
文禄05年/慶長元年(55)
慶長02年(56)
慶長03年(57)
慶長04年(58)
慶長05年(59)九男・義直(母:お亀)誕生
慶長06年(60)
慶長07年(61)十男・頼宣(母:お万) 誕生
慶長08年(62)11男・頼房(母:お万)誕生
慶長09年(63)
慶長10年(64)
慶長11年(65)
慶長12年(66)五女・市姫(母:お梶)誕生
慶長13年(67)
慶長14年(68)
慶長15年(69)
慶長16年(70)
慶長17年(71)
慶長18年(72)
慶長19年(73)
慶長20年/元和元年(74)
元和02年(75)徳川家康死没

4.督姫の生年について


・説①:永禄8年(1565年)誕生説(『徳川幕府家譜』)
・説②:永禄11年(1568年)誕生説(『法華宗全書』)
・説③:天正3年11月11日説(『幕府祚胤伝』『因州鳥取慶安寺略記』)
・説④:天正4年11月11日説(『義演准后日記』)

『どうする家康』では永禄8年誕生説(享年51説)を採用するが、僧侶・義演の日記『義演准后日記』の裏表紙の祈祷のメモに「子歳」生まれとある。祈祷には正確な生年月日が必要であるので、督姫は「天正4年丙子11月11日生まれ」で確定である。

①『義演准后日記』「元和元年正月晦日条」(醍醐寺文書)
「正月晦日。雨。備前之御前はうさう御煩、年被及四十余歳故、以外大儀云々」
(1月31日。雨。疱瘡で40余歳で死亡)

②『義演准后日記』「表紙裏文書」(醍醐寺文書)
「子歳 池田三左内儀 卅二才。十一月十一日誕生。来四月産ノ由祈年」
(池田三左(輝政)の内儀(督姫)は天正4年(1576年)丙子11月11日生まれ。慶長10年(1607年)に32才で岩松(政綱)を生む)

『義演准后日記』

5.考察


①督姫の誕生年が天正4年生まれとすると、「徳川家康は、性欲旺盛な20代で子を儲けていない」という異常な状況になる。これは「徳川家康は正室がいる期間は側室とは子を儲けていない」ことを意味する。(徳川家康が「自分より身分が上」と考えた妻は2人の正室だけであろう。)

②秀康が天正2年、督姫が天正4年に生まれたのは、正室・築山殿と離婚していたからだと考えられる。

③徳川家康の女性遍歴(概略)

 ・正室・築山殿と結婚
  ↓築山殿と離婚&嫡男の自害→出産経験がある女性と結婚(未亡人好き)
  ↓正室・朝日姫と結婚
 ・朝日姫と死別→若い女性と結婚(ロリコン)

 まずは数人の嫡男候補を確保。その後は若い女性と。

④徳川家康の子の数は、妻の数が20人として、1人が5人生めば100人になるが、なんと16人(男11人、女5人)と少ない。これは、阿茶のように、流産して子を生めない体になった側室もいるので、少ないのであろう。

・正室・築山殿とは、すぐに2人儲けたのに3人目が生まれなかった理由は、別居→離婚であろう。

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