陰陽法師・円能による「敦成親王、藤原彰子、藤原道長呪詛事件」
事件が発覚したのは寛弘6年(1009年)1月30日。
『日本紀略』「寛弘6年(1009年)2月4日条」によると、陰陽法師・源念を喚問し、首謀者は、
・高階光子(藤原伊周の母・高階貴子の妹)
・源方理(藤原伊周の妻・源幾子の兄)
・源方理の妻・源子
・源方理の妻の父・源為文
の4人だと白状させたという。
この陰陽法師・源念は共犯者であり、実行犯を安倍晴明の宿敵・蘆屋道満だとするのは後世の誤伝で、真の実行犯は陰陽法師・円能である。
(明法博士というと中原朝臣のイメージが強いが)円能を喚問した明法博士・美麻那朝臣直節(みまなのあそんなおさだ)と明法博士・令宗朝臣元正(よしむねのあそんもとまさ)の記録『勘問僧圓能等日記』(僧円能等を勘問せる日記)が、明法博士・令宗(惟宗)允亮編『政事要略』に掲載されている。
■『百錬抄』
〇廿日。止前帥朝参。依坐咒詛事也。(六月廿三日被聴。)
寛弘6年(1009年)2月20日、藤原伊周、朝参(参内)禁止。これは呪詛の連座である。(6月23日には聴(ゆる)さる。)
■『日本紀略』
■寛弘6年(1009年)1月30日条
卅日丙戌。奉咒詛中宮(彰子)幷第二親王(敦成)厭物出来。
(30日丙戌。中宮・藤原彰子、並びに第二皇子・敦成親王を呪詛奉る厭物(いやもの。呪いの人形など呪詛に使う物、式神)が出て来た。)
■寛弘6年(1009年)2月5日条
五日。辛卯。大原野祭。今日。於左近馬場、被勘問奉咒詛中宮(彰子)幷第二親王(敦成)、左大臣(道長)、陰陽法師源念。又東宮傅藤原道綱卿奉勅。召大外記滋野善言。仰令明法博士勘申奉咒咀中宮幷第二皇子之者。佐伯公行朝臣妻高階光子、幷民部大輔源方理、幷妻源氏、其父爲文朝臣等罪名。先之。去月卅日厭物等出来云云。
(5日辛卯。(藤原氏の氏社である)大原野神社の祭。今日、左近馬場に於いて、中宮(藤原彰子)、並びに第二皇子・敦成親王、左大臣・藤原道長を呪詛奉った陰陽法師・源念が勘問(かんもん)された。また、東宮(居貞親王)の守役(春宮大夫)・藤原道綱卿は勅命を奉り、大外記・滋野善言を召した。明法博士に中宮並びに第二皇子を呪詛した者(陰陽法師・円能)の勘問を命じた。佐伯公行朝臣の妻・高階光子、並びに民部大輔・源方理(かたまさ)、並びに妻・源氏、その父・源為文朝臣らの罪名(罪とそれに対応する罰)を(「賊盗律」に照らし合わせて)調べさせた。これは、先月30日に厭物等が出て来たことによるという。)
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