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「地獄沢」はいずこ?

 藤原元命(藤原北家魚名流)は、花山天皇の側近であった藤原惟成の叔父で、尾張国守に任命された。

 赴任先の尾張国で、女性に会いに行く途中、尾張国鳴海の「地獄沢」(愛知県名古屋市緑区)において、橋が無かったので、近くの地蔵菩薩が彫られた卒塔婆を石橋にして踏んで谷川を渡るが、仏罰により絶命した。

 閻魔大王は、地獄行きを命じるが、そこに地蔵菩薩が現れて助命嘆願し、生き返ったという。

 地獄沢  鳴海山のうちにあるべけれど、其の所、今、定かならず。尾張守元命朝臣が女のもとに通ひける時、地蔵を彫りたる高卒塔婆(たかそとば)を小川の仮橋として踏み渡りし罪により、地獄におちたりしを、彼の地蔵、たすけ給ひて、一めひ活還(よみがへ)りしよし『地蔵菩薩霊験記』に見えたるを、『名所図会』の「如意寺」の条にあげ置くる古跡なり。俗説なるべけれど、ふるき伝へにて、『犬筑波集』の「雑」の部の連歌にも、
  ほとけをふんでたすかりぞする
           たに河にまはるかたなきそとばばし
と見えたり。

「今、定かならず」と言われると、探したくなる。

まずは、『尾張名所図会』の「如意寺」の条を読む。

頭護山如意寺(駅中相原村にあり。曹洞宗瑞泉寺末)
 当寺、もと鳴海の小高原にありて、青鬼山と号せしが、康平二年、尾張守元命朝臣の家臣・為家、堂を営み、地蔵の大像を安置せしを、弘安五年、長母寺の無住国師、中興し、応永四年、今の処に移り、瑞泉寺に属す。六地蔵のうちにて、和歌によめる鳴海寺、是なり。
(『地蔵霊験記』に、藤原元命朝臣は、凶悪の人にて、鳴海に住みけるが、忍びて通ふかた有て、夜な夜な行きけるに、霜月廿日あまりの夜明け方に、彼方より帰るとて、地獄沢といへる小川にかゝりけるが、氷はりつめて渡りかねければ、召し連れたる若者二、三人して、高き卒塔婆の有けるをとり、橋に架(わた)しけるに、此の卒塔婆に地蔵菩薩を彫り付けたりしを踏(ふん)で渡りけるが、ほどなく元命朝臣、大病をうけ、従者・為家と共に卒して、焔王(えんおう)の前に至り、罪業(ざいごう)をたゞされけるを、彼の地蔵尊、出で玉ひて、さまざまわび給ひて蘇生しけるに、元命朝臣は、猶、悪事やまずして国人ににくまれ、終りをよくせざりしとぞ。為家は、罪業をおそろしくおもひて、六角二階の伽藍を営み、閣上に十八体の地蔵を安置し、中尊に丈六の地蔵の大像を造り、東海道の側に安置し、「鳴海の地蔵」と称せしが、年つもりて破壊せしを、一円上人、再興せしよしにしるせり。俗に「蛤地蔵」と称す。又、此の日、里人集りて的を射る。是、昔、青鬼出て様人をるやまたずあり。地蔵尊の利益により彼の鬼を退治せし風なり。)

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 「地獄沢」は、新海池の南側の「作の山」にあり、青鬼山地蔵寺(現・如意寺)は、新海池の北側の「地蔵山」(鳴海八幡宮の由緒では「小松山」)にあったのではないかとされている。
 いずれにせよ、新海池の周辺にあったと思われるが、「地獄沢」は昭和時代の宅地造営で埋め立てられ、藤原元命の従者・為家が建てた「鳴海の地蔵」地蔵寺は廃寺となったが、鳴海町作町に「蛤地蔵」如意寺として再建された。

──なぜ東海道(国道1号線)沿いではないのか?

北の道が鎌倉街道で、南の道が東海道。

 東海道とか、東海道五十三次・鳴海宿というのは、江戸時代以降の話であり、平安時代の街道は、後の鎌倉街道・古鳴海宿を通っていたからである。藤原元命は、街道を通っていたが、夜の事であったので、脇道にそれてしまい、地獄沢に至ったのであろう。

 現在の如意寺は、鳴海城近くの「鳴海町作山」にある。寺と共に住所も移ったのであろうか。


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