源義経の「腰越状」
元暦2年(1185年)、源義経は、平家を討伐した。そして、平宗盛を鎌倉へ護送した。源義経は、源頼朝から平家討伐の大手柄を大賞賛されると信じていたが、日頃の不義により、源頼朝の気分を損ねており、既に義絶されていた猶子・源義経は、鎌倉将軍の宿泊施設「浜辺御所」があった酒匂宿(神奈川県小田原市酒匂。伝承では金洗沢(神奈川県鎌倉市七里ガ浜)の関所)に留め置かれた。
源頼朝の「源義経暗殺計画」を耳にした源義経は、腰越の龍護山満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)で心情を綴った。この手紙を「腰越状」という。
※「腰越状」に関する誤解
・「腰越状」は源義経が源頼朝宛に出した愁訴状である。
・直接、源頼朝宛では失礼なので、中原(後の大江)広元宛に出した。
以上の2点が誤解である事は、下掲の本文を読めば分かる。源義経は、源頼朝宛で起請文を送ったが、返事が来ないので、中原(後の大江)広元に源頼朝の誤解を解いてもらうよう依頼したのが「腰越状」である。
■『シリーズ寺ものがたり① 満福寺 ~義経ゆかりの寺~』
わたくしは鎌倉殿(頼朝)の代官のひとりに選ばれ、天皇の使いとなって戦い、平家に倒された父(義朝)の恥をそそぎました。鎌倉殿からは、褒美がいただけるに違いないと思っておりましたのに、逆にあらぬ告げ口によってお叱りをうけ、血がにじむほどの、悔し涙をこの腰越の地で流しています。朝廷から武将としては最も高い位の五位ノ尉に任命されたのは、源氏の名誉でもあります。なのに、こんなにお怒りになるとは。<後略>
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※龍護山満福寺(神奈川県鎌倉市腰越):源義経の「腰越状」の弁慶の手による下書き(草庵)が残されている。「腰越状」の縮刷や、『シリーズ寺ものがたり① 満福寺 ~義経ゆかりの寺~』が販売されている。
http://www.manpuku-ji.net/
Q1:「腰越状」を書いたのは誰か?
伝承では弁慶であるが、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、
中原広元「検非違使になられたこと、当家の名誉であり、世にも稀な重職で、これ以上のものはないと書いてあります。されど、鎌倉殿も右兵衛権佐であらせられた」(原文「剩(あまつさ)へ義経、五位尉に補任(ぶにん)の条、当家の面目、希代の重職、何事を之に加へん哉」)
源頼朝「わしの官職を、ろくに知らぬ者が書いたことは明白だ」
とし、平宗盛だとした。
母親の故郷を間違えているから、源義経が書いたとは思われず、単純に考えれば、源義経の右筆・中原信康が書いたのであろう。
司馬遼太郎『義経記』(下)「腰越状」では、伝承通り、「義経はここで、弁慶に筆を取らせ、愁訴状を書かせた」とする(上の動画の33:10)。
Q2:本当に源義経は、鎌倉に入れなかったか?
下掲の『吾妻鏡』には、「平宗盛を連行して(鎌倉へ)参上した。(源義経は)その手柄を(源頼朝に)賞賛されると信じていたが、(源義経には)日頃の不義(命令違反)があったので、(源頼朝は、源義経に会うと)たちまち気分を損ね、(それ以後、源頼朝は、源義経を)鎌倉へ入れなかった」(意訳)とある。
下掲の『平家物語』には、「(源義経は)鎌倉に入って源頼朝に会った。(源義経は)源平合戦の手柄話を(源頼朝に)聞かれると思っていたが、源頼朝は、源義経が怖くて、「疲れたであろう。早々に休め」と『鎌倉殿の13人』の後白河法皇のようなことを言って源義経と余り言葉を交わさずに追い払った。翌朝、使者を送り、源義経に金洗沢へ行くよう伝え、(それ以後、源頼朝は、源義経を)鎌倉に入れなかった」(意訳)とある。
(注)学者や解説者は「『吾妻鏡』は源頼朝と源義経は鎌倉で会っていないとするが、『平家物語』では会ったとする」としているが、『吾妻鏡』には、上述のように、「源頼朝と源義経は鎌倉で会った」とある。『吾妻鏡』をどう訳せば(解釈すれば)「源頼朝と源義経は鎌倉で会っていない」となるのか教えていただきたいものである。
偽文書とされる「腰越状」には「此の時に当たり、永く恩顏を拝し奉らず」(最近は、長い間、(源頼朝)お顔を拝見せず)とあり、「腰越状」を書いた直前に、源頼朝と源義経は鎌倉で会っていないとする。
1.解説動画集
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