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讃岐局(元若狭局)&一幡親子の最期

(注)
  ├若狭局(後に讃岐局)
 比企能員      ├一幡
  ├能本→日学 源頼家 
妙本(三浦氏の娘)    

(注)『吾妻鏡』では渋川兼忠の娘。『愚管抄』ではミセヤ行時の娘。『鎌倉殿の13人』では道。

比企能員┬長男・兵衛尉余一:母・?
    ├次男・次郎宗員 :母・?
    ├三男・三郎宗朝 :母・渋河兼忠の娘
    ├四男・弥四郎時員:母・渋河兼忠の娘
    ├五男・五郎   :母・?
    ├?女・若狭局→讃岐局=源頼家側室:母・三尾谷行時の娘?
    ├?女・?=笠原親景室 :母・?
    ├?女・?=中山為重室 :母・?
    ├?女・?=糟屋有季室 :母・?
    ├?男・円顕           :母・?
    ├末子・大学三郎能本〔能基〕→本行院日学:母・三浦氏の娘?
    ├伝承・仙覚:母・三浦氏の娘(「比企氏の乱」の時は胎児)?
    └猶子・河原田次郎

1.一幡の最期 「比企氏の乱」で死んだ?


・『吾妻鏡』:「比企氏の乱」の時、小御所で焼死。
・『愚管抄』:小御所を抜け出したが、後に北条義時の家臣に殺された。
・『猪熊関白記』:最初は一幡は討たれたと聞いたが、後に一幡は討たれなかったと聞いた。

■『吾妻鏡』「建仁3年(1203年)9月3日」条
今日、於小御所跡、大輔房源性〔鞠足〕欲奉拾故一幡君遺骨之處、所燒之死骸、若干相交而無所求。而御乳母云、「最後令着染付小袖給、其文菊枝也」云々。或死骸、右脇下小袖僅一寸餘焦殘、菊文詳也。仍以之知之奉拾了。源性懸頚、進發高野山。可奉納奥院云々。

(今日、小御所跡において、 源頼家の近習・大輔房源性〔蹴鞠名人・だいゆうぼうげんせい〕は、故・一幡の遺骨を拾おうと、焼け跡の死骸を探したが見つからなかった。乳母が言うには、「最後に着ていた着物は、模様を染めた小袖で、その模様は菊の枝だった」と。ある死骸の右脇下の小袖が、ほんの一寸(3cm)ばかり焼け残り、菊の紋章であった。それで、これが一幡の小袖だと分かり、拾った。大輔房源性は(頭陀袋に入れて)首に掛け、高野山へ向かった。奥の院に奉納するという。)

※「遺体は無いが、着ていた着物はある」というのは、「本能寺の変」の織田信長の場合と同じですね。本当に死んだのか?
※発見された一幡の袖は、妙本寺の「一幡之君袖塚」に埋められたはず。
■『愚管抄』
さて、本体の家にならひて、子の一万御前は、或る人やりて討たんとしければ、母、抱きて、小門より出逃にけり。(中略)さて、其の年の十一月三日、終に一万若をば、義時、とりておきて、藤馬と云ふ郎等に指し殺させてうづみてけり。

■『武家年代記』
(前略)擬誅一万公之処、乳母懐抱之迯去歟。(中略)十一月三日、義時使藤馬允誅一万公了。
■『猪熊関白記』「建仁3年(1203年)9月7日」条
(前略)頼家卿子息(年六歳云々)並検非違使能員(件能員頼家卿子息祖父也)、為今大将軍実朝、去二日被撃云々。後聞、頼家卿子息不被撃云々。於能員者撃了云々。

(源頼家の子・一幡(6歳という)と検非違使・比企能員(この比企能員は、源頼家の子・一幡の外祖父である)は、今の征夷大将軍・源実朝に、去る9月2日に討たれたという。後に聞くに、源頼家の子・一幡は討たれなかったという。比企能員は討たれたという。)

※「為今大将軍実朝」って・・・源実朝は元服したばかり。「為北条政子」でしょうね。北条政子にとって一幡は孫ですが、千幡は子なので、尼御台としての権力を保てます。
■間宮士信等編『新編相模国風土記稿』(第4輯)「鎌倉郡」「小御所」
養和元年五月、造営あり。(中略)建仁の頃は、一幡(能員が女・若狭局が生所也)、爰に住す。三年九月、比企能員、誅せられ、其の一族等、此所に篭りて謀叛す。政子、軍兵を遣はし、是を討たしむ。彼輩、防戦の後、舘に火を放ちて自害す。一幡も其の殃(わざわひ)を免れず。(後略)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763970/261

※比企能員の末子は、比企能本で、京都の東寺にいたので生き延びたという。4代将軍・九条頼経の室となっていた姪の竹御前の執り成しで許されて鎌倉に戻り、竹御前が亡くなると、比企ヶ谷の比企邸跡に竹御所の菩提を弔う法華堂を創建し、これが後に妙本寺となる。
 なお、『吾妻鏡』「建仁3年(1203年)9月3日」条には、前日の「比企氏の乱」後、比企能員の妾と2歳の男子は助命され、三浦一族の和田義盛に預けられた後、安房国へ配流となったとある。比企能員の妾とは三浦氏の娘(妙本寺の寺伝によれば、法名は妙本)のことで、2歳の男子とは比企能員の末子・比企能本(「比企三郎能基本行院日学上人」)のことだという。
 一説に、生国不明(一説に安房国)、生年不明(一説に「比企氏の乱」があった建仁3年(1203年)生れ)の仙覚が比企能員の妾のお腹の中にいたというが、これは、日蓮を貫名氏の子とするような伝承であろう。

■『吾妻鏡』「建仁3年(1203年)9月3日」条
建仁三年九月大三日戊辰。被搜求能員余黨等、或流刑、或死罪、多以被糺断。妻妾并二藏男子等者、依有好、召預和田左衛門尉義盛、配安房國。

(建仁3年(1203年)9月3日。比企能員の残党を探し出し、ある人は流罪に、ある人は死刑にと、多くの人々が処分された。三浦氏の妾(妙本)と2歳の男の子(日学)は、好(よしみ)あるにより(縁故関係にある)三浦一族の和田義盛に預けられ、安房国へ配流となった。

※本行坊
http://hongyobo.jp/
http://hongyobo.jp/yurai/

※参考記事
・渡邊大門「【深掘り「鎌倉殿の13人」】幼い一幡は小御所で焼死したのか、北条義時に殺されたのか」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220819-00310450

2.『鎌倉殿の13人』での扱い


★『鎌倉殿の13人』(第31回)「諦めの悪い男」終了後の予想動画

『鎌倉殿の13人』(第31回)「諦めの悪い男」では、北条義時の下人・善児が一幡を殺すシーンも、炎に巻かれるシーンもなかった。
『愚管抄』では、母・讃岐局(元若狭局)が一幡を連れて小門から逃げ出したとする。その後、見つかり、11月3日、北条義時の郎党・藤馬(とうま。『鎌倉殿の13人』のトウのモデル?)が殺害して埋めたという。
『鎌倉殿の13人』では、比企能員の妻・道が比企能員の娘・せつ(讃岐局)と比企能員の孫・一幡を逃がした後、トウに刺し殺されて小御所で死んでいる。そして、一幡は、北条泰時&善児に見つかる。

★『鎌倉殿の13人』(第32回)「災いの種」での扱い

一幡は小御所で死んではいない。北条泰時&善児が匿っているのであるが、「災いの種」である。殺すか、源頼家のように出家させるか。
 北条義時はためらうことなく、殺すことを選んだ。北条義時は、善児に殺害を命じるが、善児は断った。
北条義時「あれは生きていてはいけない命だ」
善児  「できねえぇ」
北条義時「千鶴丸と何が違う?」
善児  「わしを好いてくれている」
北条義時「似合わないことを申すな」
トウ  「一幡様、トウと水遊びいたしましょう」
善児が千鶴丸にかけた言葉と同じ言葉をかけ、トウは一幡を連れて行った。(「11月3日に水遊び? 寒いだろ」なんて指摘はしてはいけない。)
殺害シーンはなかったが、ブランコの縄を切ったのは、「もうこのブランコに一幡が再び乗ることはない(トウに殺されるであろう)」と言うことの表現(演出)であろう。

3.讃岐局の最期 「比企氏の乱」で死んだ?


・生存説(東松山市):大蛇に締めつけられているように苦しい。
・死亡説(鎌倉市) :成仏できず、大蛇になって苦しんでいる。

(1)讃岐局(元若狭局)生存説(東松山市)


 若狭局(一幡の母)は、「比企氏の乱」の時、小御所を抜け出し、本拠地・武蔵国比企郡大谷の梅ヶ谷へ逃げたという。
 「比企氏の乱」の翌年、源頼家が暗殺されると、菩提を弔うために比企尼ゆかりの比丘尼山に庵(大谷山寿昌寺)を建てた。この寺は、天正20年(1592年)、現在の扇谷に移り、寺名を「扇谷山宗悟寺」とした。この宗悟寺(埼玉県東松山市大谷)には、源頼家の位牌や、讃岐局(元若狭局)が源頼家を失い、あたかも体を蛇に巻き付かれたような苦しみから逃れるために祈願したという「蛇苦止(じゃくし)観音像」がある。(『化物語』の千石撫子を思い出した。)また、境内には、地元有志による「比企一族顕彰碑」、付近には、讃岐局(元若狭局)が思い出を断ち切るために、比企尼のアドバイスで櫛を投げ入れた「串引沼」などがある。

■『新編武蔵風土記稿』「宗悟寺」
曹洞宗。豊嶋郡赤塚村松月院の末。
慶安元年、寺領十五石餘の御朱印を賜はれり。
寺傳に、當寺は、鎌倉将軍賴家、元久元年七月、伊豆國修善寺に於て害せられし後、其妾・若狭局、當所に来て剃髪染衣の身となり、前にしるせる比丘尼山に草庵を結び、賴家追福の爲として一寺を草創し、即、賴家の法謚「長福寺圓壽昌大居士」の文字、及、村名を取て「大谷山壽昌寺」と號すと云。
 按に若狭局が當所へ隠棲せしことは、他に所見なけれど、彼局は比企判官能員が女にて、賴家の長男一萬の母なるよし、将軍執権次第に載す。又、【東鑑】養和二年の條に、「比企四郎能員云々、武蔵國比企郡を以て請所と爲」などみゆれば、賴家沒落後、當所は父能員が舊領なる、因て以隠れ住せしならん。

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http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/8/R4_2_p2_p5.pdf


(2)讃岐局(元若狭局)死亡説(鎌倉市)


 比企邸跡は、現在、長興山妙本寺になっている。

■「比企能員邸址」(妙本寺の石碑)
  比企能員邸址
能員は頼朝の乳母・比企禪尼の養子なるが、禪尼と共に此の地に住せり。此の地、「比企ヶ谷」の名あるも之に基く。能員の女、頼家の寵を受け、「若狭局」と称し、子・一幡を生む。建仁三年、頼家疾むや、母・政子、関西の地頭職を分ちて、頼家の弟・千幡に授けんとす。能員、之を憤り、密に北条氏を除かんと謀る。謀、泄れて、郤って北条氏の為、一族、此の地に於て滅さる。             大正十二年三月 鎌倉町青年団建

 この妙本寺には、讃岐局(元若狭局)を蛇苦止明神として祀る蛇苦止堂があり、御堂の前の「蛇苦止ノ井」は、「比企氏の乱」の時、讃岐局(元若狭局)が家宝を抱えて飛び込んだ井戸で、讃岐局(元若狭局)はこの井戸で水死したという。

・妙本寺      (神奈川県鎌倉市大町1丁目15-1)
・蛇苦止堂     (神奈川県鎌倉市大町1丁目16)
・讃岐局蛇苦止霊之墓(神奈川県鎌倉市大町1丁目20-1)

 池で入水自殺した娘が大蛇=池の主になったという話は良く聞くが、井戸で入水自殺した娘が蛭になった話はあるが、大蛇になったという話は知らない。井戸には井戸神がいるので、大蛇とは共存しがたい。讃岐局(元若狭局)が入水自殺したのは近くの池であり、「蛇苦止ノ井」は「蛇苦止堂の近くの井」の意であり、本来の名称は「蛇形井」であろう。(家宝が出てくるか、井戸を掘ってみたいものである。)

■「妙本寺由来」
妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本です。
この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。
比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。
日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。
※「日蓮宗 霊蹟本山 比企谷 妙本寺」公式サイト
https://www.myohonji.or.jp/

 『吾妻鏡』の文応元年(1260年)10月15日&11月27日条によれば、第7代執権・北条相模守政村の娘は、大蛇になった讃岐局(元若狭局)の霊に取り憑かれ、蛇のような狂態を見せるようになったが、大蛇となって苦しんでいる讃岐局(元若狭局)を救うために、北条政村は『法華経』を写し、鶴岡八幡宮の隆弁は加持祈祷をして成仏させた。

■『吾妻鏡』「文応元年(1260年)10月15日」条
文應元年十月小十五日己酉。相州〔政村〕息女煩邪氣。今夕殊惱亂。「爲比企判官女・讃岐局靈祟」之由、及自詫云々。件局「爲大蛇、頂有大角、如火炎。常受苦。「當時在比企谷土中」之由發言。聞之人堅身毛云々。

(文応元年(1260年)10月15日。相模守(北条政村)の娘が邪気を煩った(物の怪に憑かれた)。今日の夕方は、特に、悩乱(蛇のように体をくねらせている)。「比企能員の娘・讃岐局(元若狭局)の霊の祟り」だと口走ったという。その局は、「大蛇となり、頭のてっぺんには大きな角があり、火炎の様であった。常に苦しみを受けている。常には、比企谷の土の中に居る」と言っている。これを聞いた人は、身の毛がよだったという。)

■『吾妻鏡』「文応元年(1260年)11月27日」条
(前略)今日。相州〔政村〕被頓冩一日經。是息女惱邪氣。依比企判官能員女子靈詫、爲資彼苦患也。入夜、有供養之儀。請若宮別當僧正爲唱導。説法最中、件姫君惱乱、出舌舐脣。動身延足、偏似蛇身之令出現。「爲聽聞、靈氣來臨」之由云々。僧正令加持之後、惘然而止言、如眠而復本云々。

(今日、相模守(北条政村)は、たった一日で写経をした。これは娘に邪気が付いたからである。比企能員の娘の霊の託宣で伝えたので、彼女の苦しみを助けてやるためである。夜になって、(比企能員の娘の)供養の儀式を行った。鶴岡八幡宮若宮の別当・隆弁僧正を招き、称名を唱えた。説法の最中、北条政村の娘は錯乱して、舌を出して唇をなめ、足を延ばして身悶える姿は、まるで蛇のようであった。「これは、お経を聞くために、霊が出てきたのだ」そうだ。隆弁僧正の加持祈祷後は、呆然として黙りこみ、眠るようにして回復したという。)

※寺伝では、讃岐局(元若狭局)の弟・比企能本が日蓮に救いを求め、日蓮が『法華経』の功徳によって讃岐局(元若狭局)の霊を成仏させ、 蛇苦止明神として祀ったとする。

 上述のように、比企能本が竹御前の菩提を弔うために法華堂を建てた。その後、この事件により北条政村が蛇苦止堂を建て、以後、整備されて比企一族の菩提寺「妙本寺」となったという。

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■『新編相模国風土記稿』「讃岐局」
初は若狭局と云ふ。将軍頼家の妾。嫡男・一幡の母。法名「芳縁」。建仁三年九月二日、此地にて自害すと云ふ。又、此谷の池にて亡しとも伝ふ。蛇苔〔苦〕止大明神と号し、域内別に小社あり。
■『新編相模国風土記稿』「蛇苔〔苦〕止明神社」
方丈の後にあり。是、比企能員の女・讃岐局の霊を祀れるなり。文応元年、其の霊、北条時村の女に着し、大蛇となりて、常に苦を受くる由、自託せし事、『東鑑』に見えたり。故に、此時、其の鬼、祟りを鎮めんが為、爰に崇祀し、託言に因って、此の神号を授けしなるべし。
■『新編相模国風土記稿』「蛇形井」 ※「蛇形の曼荼羅」が落ちた井戸
同所社前にあり。
■『新編相模国風土記稿』「方丈」寺宝 曼荼羅三幅
共に日蓮筆。一幅は「蛇形の曼荼羅」と云ふ。長四尺許、幅三尺余。日蓮、池上にて此曼荼羅に向かって遷化なり。故に「臨滅度時の曼荼羅」と号す。「蛇形」と云ふは、昔、兵乱の時、盗当寺に濫入せし時、此曼荼羅、井中に落ちて、蓮字の撥たる所、蛇形に見えければ、盗催れ去りしとなり。故に名をつく。

 比企能員の末子・比企能本は、日蓮の弟子となり、日学と名乗ると、比企能員の屋敷跡を日蓮に献上した。日蓮は日蓮宗最初の寺・長興山妙本寺を建てた。「長興」は比企能員の法号、「妙本」は比企能員の妻(三浦氏の娘)の法号である。

妙本寺は日蓮宗なのに、寺紋は貫名家の「井筒に橘」ではなく、源氏の「笹竜胆」である。これは、元々は竹御前の法華堂であり、その竹御前の母は源義仲の娘だからであろう。

「蛇苦止神」は御シャグジ神。「シャグジ」の表記は「赤口」「社宮司」など数多い。縄文人の神とも、石神とも、蛇神とも。(蛇神ならば生卵を供えるはずであるが、御杓文字を供えることが多い。)

■ミシャグジ - Wikipedia
 ミシャグジとは、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジ信仰)で祀られる神(精霊)である。 長野県にある諏訪地域はその震源地とされており、実際には諏訪大社の信仰(諏訪信仰)に関わっていると考えられる。 全国各地にある霊石を神体として祀る石神信仰や、塞の神・道祖神信仰と関連があるとも考えられる。

※「震源地」という言い方は初めて聞いた。
※諏訪大神の本地仏は『法華経』を守護する「普賢菩薩」だという。

※「ミシャグジ 」
https://note.com/sz2020/n/n042416ed4f01


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