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藤長庚『遠江古蹟図会』065「瀬戸村之郷士」
『どうする家康』の神君・家康公は、何の苦も無く遠江国に入り、瀬戸方久の出番は無し。1人2役でムロツヨシさんに演じていただきたかった。
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徳川家康は、「井伊谷三人衆」の案内で遠江国へ入ると、井伊谷城(上の地図の「伊井谷」)を落し、鳳来寺道を通って金指へ。すると、都田川が行く手を遮った。
その時、瀬戸村(現・静岡県浜松市北区細江町中川の瀬戸地区)の郷士(二俣城主・松井氏の縁者)・松井平兵衛(法名・方久)が現れ、渡河点(浅瀬)を教えたので、徳川家康は、無事に都田川を渡ることができ、上機嫌で、対岸の祝田では歌を詠んだ。その後、橋羽街道を南下して東海道に達すると、東進して、遠江国府所在地・見付まで行き、戻って引間城に入った。
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松井平兵衛が、引間城に入った徳川家康に、家宝の刀(銘「千寿丸重船」)を献上すると、徳川家康は「千寿丸という名は長寿に繋がる」として喜び、松井平兵衛に名字「瀬戸」と、次の「(400余石の買得地の)安堵状」を授けたという。
於井伊谷所々買得地之事
一、上都田只尾半名 一、下都田十郎兵衛半分(永地也)
一、赤佐次郎左衛門尉名五分一 一、九郎右衛門尉名
一、祝田十郎名 一、同又三郎名三ケ一分
一、右近左近名 一、左近七半分
一、禰宜敷銭地 一、瀬戸平右衛門尉名
已上
右条々、如前々領掌不可有相違、并、千寿院、同重力ニ借預候任一筆、可有催促之、若於有難渋者、公方人以可有其沙汰者也。仍如件。
永禄拾弐己巳年 八月三日
家康
瀬戸方久
※「名」は「名田(みょうでん)」(所有者(名主)が、権利(名主職)を持つ土地)のこと。
井伊谷の近在に、引佐郡瀬戸村と云ふ有り。(西は祝田、東は都田、北は鷲沢、南は味方原。)
神君の御在世に、此の所に松井平兵衛と云ふ者有り。(三倉村久右衛門と同じ類なり。)素(もと)は武家にて、井伊信濃守に仕へる。
神君、浜松御在城の時、平兵衛を召し出され、御目見へ相済み、御懇ろの上意、之れ有り。此の時、平兵衛、家の重宝・千寿丸重船(しげふね)の太刀を献上す。神君、限りなく御観喜(かんき)有り。「千寿丸とは、寿命長久の瑞。目出度し」とて、則ち、平兵衛へ御褒美有りて、「瀬戸」と云ふ苗字を賜り、四百余石の黒印を下し置かる。
今にても「瀬戸」を名乗り、瀬戸小源太と云ふ。先祖・平兵衛、法名「方久大居士」。家に位牌残る。由緒正しき家なれば、ここに載す。其の時の拝領物、今に所持致す由。古き物候。其の形は、ありたるのみ申し伝えなり。
今以て子孫に是れを伝ふといへども、如何成りしや、中興に至りて、公儀不沙汰に及びしかば、右の知行は宛行(あてが)はれずと也。今、家は没落して衰へたる也。惣じて由緒有る者、近来は、家、衰微に及ぶ。奢る故ならむか。
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