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藤長庚『遠江古蹟図会』083「万能之挑燈野」
「一言坂の戦い」で敗れた徳川家康は悔しくて、武田信玄軍を夜襲して一矢報いたとされるが、「武田信玄軍」ではなく、「武田勝頼軍」だと考えられる。
徳川家康は、武田信玄軍が攻めてきた時、犀ヶ崖で「布橋の計」を使い、全滅を目論んだが失敗したことを悔しく思い、武田勝頼軍が攻めてきた時に万能村(後に上万能、下万能に分割)の「揺(ゆるぎ、石動)」という沼地で再度「布橋の計」(深田に布の橋を架け、三つ葉葵の紋が描かれた提燈を持つ藁人形に突進させる)を使い、50騎討ち取ったという。そして、死者の魂は大きな「万能蛍」になったという。
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・ウタリ(雨足):雨が足りている湿地帯
・ママネ(馬々寝):揺に足をとられた徳川家康の馬が倒れて寝た場所
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池田の宿の北在に万能村と云ふ所有り。此処に「挑灯野(ちょうちんの)」と云ひて芝間(しばま)の深田あり。古跡之所の者、呼んで「ゆるぎ」と云ふ。
此の由来を尋ぬるに、往古、天正年中、神君、浜松犀が峠(がけ)にて甲州勢を陥れし時、軍兵討ち洩らされ、其の無念やまず。家康公、御計を廻らし、万能村迄御退き成さらる。夜の事にて、藁人形に挑燈を持たせ、十人計り、彼の深田へ差して置きけるを、甲州勢、是を遠目に見て、「あれに向かえ。見えし葵の紋、家康に紛れなし。闇夜こそ幸、討ち取れ」と下知し、闇(くら)ければ深田有りとは知らず、挑燈目当てに騎馬にて進みしかば、人馬共に腰迄深田へ踏み込み、出でんとすれども叶はぬ所を遠矢にて射て取り、鉄砲にて五十騎を打ち殺す也。
この所、今に残りて、松樹の森有り。前の草原を「挑燈野」と云ふ。人、この場へ行くと、泥、土に過ちて落ち入れば、腰まで踏み込む所也。芝間にて、足にて揺り動かせば、ゆるぐ故に「ゆるぎ」と名付く也。松原往還の北に有り。
今から400年以上前の戦国時代の終わり頃のことです。 戦に敗れ退却していた徳川軍は、当時、万能村といったこの辺りで、武田軍に追いつかれそうになりました。
そこで、周囲の地形に詳しかった徳川家康は、夜になったことを利用し、提灯の明かりで武田軍を「ゆるぎ」とよばれる深田におびきよせました。 ぬかるみに足をとられて動けなくなった武田軍は次々と討たれ、徳川軍は無事浜松へ戻ることができた、といわれています。
この地が「挑燈野」と呼ばれるようになったのは、この出来事からで、その後、多く飛ぶようになったホタルは、命を落とした武田軍の兵士の魂であると伝えられています。
以上、『遠江古蹟図会』では、松原往還の北・揺(ゆるぎ、石動)の松の木の下に、藁人形を並べ、三つ葉葵の紋が入った提燈を持たせたので、武田軍は藁人形目指して突進し、深田に入って動けなくなったところを弓や鉄砲で攻められ、50騎が討ち死にしたとある。
『遠江古蹟図会』は、著者が実際に現地へ行って取材し、絵を描いた本であるが、なぜか現在に伝わっている伝承と異なることが多い。現在に伝わっている「挑燈野の戦い」は、「坊僧川の揺橋を壊し、布橋とした。武田軍は東から攻めてくるので、川の対岸(右岸、西岸)に武装させた藁人形を立て、幟も立て、松林の松には提燈を掛けて、徳川軍が休んでいるように見せかけた。突進してきた武田軍が布橋を揺橋だと思って渡り、川に落ちたところを弓や鉄砲で襲った。溺死した者も含め、50騎を討ち取った」である。
以後、石動では、普通の蛍の倍の大きさの「万能蛍」が飛び交うようになり、この万能蛍は、「挑燈野の戦い」で亡くなった武田軍兵の魂だと考えられた。
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