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第4回「清須でどうする!」(予習)

永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」
永禄3年(1560年)6月18日 「第2次 石ヶ瀬の戦い」(vs 水野信元)
永禄3年(1560年)6月18日 「重原城攻め」(『水野勝成覚書』)
永禄3年(1560年)6月19日 「刈谷十八町畷の戦い」(vs 水野信元)
永禄4年(1560年)2月 7日  「第3次 石ヶ瀬の戦い」(vs 水野信元)
永禄4年(1561年)4月    今川氏から独立(「牛久保城攻め」)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄6年(1563年)7月     「元康」から「家康」に改名
永禄9年(1566年)5月     「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月   「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。

 永禄3年、「桶狭間の戦い」で今川軍が破れると、織田軍と、織田方の水野軍が三河国(西三河)に侵攻してきた。岡崎城に入った徳川家康は防戦するも、敵は強かった。一方、今川家宗主・今川氏真は、上杉謙信の関東侵攻に対抗し、「甲駿相三国同盟」に基づく北条氏康と武田信玄との共闘に追われ、徳川家康の支援が出来ないでいた。
 そこで徳川家康は、今川氏と決別し、西隣の織田&水野氏と和睦して西三河を平定すると、今川領である東三河へ侵攻し、永禄 9年(1561年)5月、三河国を平定して、12月には「徳川三河守家康」になった。

 三河国の南は海で、西は織田領、北は武田領、東は今川領と戦国大名に囲まれていたが、織田信長は美濃国の斉藤義龍、武田信玄と今川氏真は越後国の上杉謙信と戦っており、三河国は「無風地帯」とは言い過ぎだが、徳川家康にしたら、三河国平定は、周囲の戦国大名の侵攻を気にせずにできたのでは?

★清須同盟

視聴ポイント①:武田信玄に支援を申し込んだら、①戦国大名(武田氏)と国衆(松平氏)では格が違う、②主君(今川氏)を飛び越えての申し出は無礼と断られた。それに対し、於大が言うには「織田信長は対等な同盟を結んでくれる」という。織田信長の意図は? 「あらすじ」に「驚くべき条件」とある同盟の証(武田、北条、今川の「甲相駿三国同盟」では息子と娘の政略結婚)とは?

視聴ポイント②:学者は「この時期、徳川家康が三河国を離れて清須まで出向くことはない。手紙の交換で成立した同盟であろう」として、呼称も「清須同盟」ではなく、「尾三同盟」とする。清須城のCGが見所。
 エピソードは存在する。たとえば、徳川家康が清須に着くと、見物客(織田軍の武士、町民)が(かつての織田家の人質を一目見ようと)集まってきたが、本多忠勝が前に出ていきなり刀を抜き、「本日我が君が渡らせ給ふのを、汝ら何故かくも騒ぐか。無礼であろう!」と一喝したので、見物客は、その勢いに圧倒されて道をあけたという。(『家康公検定(2018年)』問題48)

http://ieyasukou.sakura.ne.jp/iwswps/wp-content/uploads/2020/07/ieyasukoukentei_2018.pdf


◎「清須」か「清洲」か?

 「清須」とは、伊勢神宮領を記録した14世紀中頃の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」として出てくる古い地名なのです。その後15世紀末になり「清洲」【文人万里集九(ばんりしゅうく)の『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』に「清洲の東」「尾之清洲城」と】が出てきて以来、両用・混用され始め、どちらかというと江戸前半までは須が、半ば以降は洲が多く、明治に入っても須が出てくるものの、明治13年西春日井郡清洲村、地籍図でも清洲村となり、同22年町制施行で清洲町に一本化され、昨年まで116年程経過したのでした。つまり、「清須」は「清洲」より古く長く使われてきた地名なのです。(中略)川や水の造り出す清らかな砂地・島・洲の地が「キヨス」であり、古くは「清須」が、のちには「清洲」という漢字があてられてきたといえます。

加藤富久「市名「清須市」について」
https://www.city.kiyosu.aichi.jp/shisei_joho/shi_shokai/shi_profile.html


★ロケ地情報

★今後の『どうする家康』
・第4回「清須でどうする」
・第5回「瀬名奪還作戦」
・第6回「続・瀬名奪還作戦」
・第7回「わしの家」
・第8回「三河一揆をどうする」


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