『鎌倉殿の13人』(第36回)「武士の鑑」の再放送を見た。
■大河紀行(第36回)「神奈川県横浜市」
神奈川県横浜市。現在の旭区で重忠はその生涯の幕を閉じました。付近には、戦いの跡を示す地名がいくつも残されています。「万騎が原」は、北条軍が数万騎の陣を構えていたことから、漢字の表記が「牧が原」から現在の「万騎が原」に変わったと伝わります。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/kikou/36.html
畠山重忠は強く、人望も篤い。その畠山重忠が鎌倉に攻めて来るという。
その人望から、多くの兵が集まっていることであろう。対抗するには万単位の兵が必要である。鎌倉にいる兵を全員連れて行こうとすると、三善康信が「朝廷は、「平将門の乱」の時、初めて門に扉をつけた」と忠告したので、北条時政は、400人の兵士を選び、御所の四方を守らせ、(この400人を残して)官軍は出発した。
■『吾妻鏡』「元久2年(1205年)6月22日」条(部分)
「畠山次郎重忠參上」之由、風聞之間、「於路次可誅」之由、有其沙汰、相州已下被進發、軍兵悉以從之。仍少祗候于御所中之輩。于時、問注所入道善信、相談于廣元朝臣云。「朱雀院御時、將門起於東國、雖隔數日之行程、於洛陽猶有如固關之搆。上東、上西兩門(元土門也)始被建扉。矧重忠已莅來近所歟。盍廻用意哉」云々。依之、遠州候御前給、召上四百人之壯士、被固御所之四面。次、軍兵等進發。
(「畠山重忠が鎌倉へ向かっている」という噂が流れたので、「途中で誅殺しよう」と決まり、北条義時以下が出発し、軍兵は皆従った。それで、御所を守護する兵が少なくなってしまった。その時、問注所の三善康信入道善信が、大江広元に相談して言った。「朱雀天皇の御世(930-946)、平将門が関東で反乱「平将門の乱」を起こした時(939年)、関東から京都まで数日かかる程離れているのに、京都では「より固い関を」と、上東門と上西門に(元は土門だったが)初めて扉をつけた。畠山重忠はすぐ近い所まで来ているというではないか。何か用意が必要であろう」と。それで北条時政が御前に来て、400人の兵士を集め、御所の四方を守らせた。それから軍隊は出発した。)
実際の畠山重忠軍は、反乱軍には見えない134人であり、万単位の兵が「こんな少数で鎌倉を攻めるはずがない。畠山重忠の謀反はデマであった」と知る事になり、非難の矛先が北条時政に向いたので、北条時政は「娘婿・稲毛重成と弟・榛谷重朝の兄弟が、畠山重忠を陥れようとしてついた嘘を信じてしまったので、こうなった」として三浦義村にこの兄弟を討たせ、事態の収拾を図った。
※参考記事「畠山重忠の乱(2/2)乱とその後」
https://note.com/sz2020/n/ne5f961e463e0
さて、次回は「牧氏の変/牧氏事件」である。北条時政&牧の方夫婦が追放され、共犯者の京都守護・平賀朝雅が、閏7月26日、京都で殺される。
藤原定家の日記『明月記』「元久2年(1205年)閏7月26日」条によれば、鶏が鳴くと、舎人が来て「後鳥羽院御所に武士が大勢集まり、旗が多く立っている」という。驚いて起きて、様子を見に行かせると「武士はいない。旗も立っていない。ただ、開いているはずの門が全て閉まっていた」という。この理由を知りたくて、未明に三条坊門殿(学説「九条(藤原)良経」/ Reco説「坊門(藤原)信清」)に聞きに行くと「鎌倉から平賀朝雅の討伐命令書が届き、後鳥羽院が許可したらしい」とのこと。その日のうちに、平賀朝雅は討たれ、夕方になって「後鳥羽院御所の門を閉めた理由は「平将門の乱」の時と同じ。武士が全員、平賀朝雅を討ちに行き、後鳥羽院御所の警備兵がいなくなったので、全ての門を閉じた。後鳥羽院御所が襲われなかったのは、神仏のご加護であろう」と判明した。(以上、意訳。)
※某学者様が「禁出入固門」を「出入りを禁じ、門には警固の兵を置いた」と訳しておられますが、大変失礼ながら、兵はいません。正しい訳は「出入りを禁じ、門を固く閉ざした」です。
■藤原定家『明月記』「元久2年(1205年)閏7月26日」条
廿六日。天晴。鶏鳴之後、舎人男奔来云、「院御所武士群集、旌旗有其数有」。驚起、以人令伺、「禁出入固門」。更不得心。
未明、馳参殿。小時出御、仰云、「此丑時、義成申云、「自関東実朝加判示送状云、「朝雅謀反者也。在京武士、駈畿内家人可追討」者。仍、馳参院御所」云々。此外無聞及事。或説ニ云、「時政嫡男・相模守義時、背時政、与将軍実朝母子同心、滅継母之党」云々。是又不知実否。
此間、朝雅、召聚従類在其家。以長俊朝臣為御使、被進院。帰参云、「只今可令参給」者。即、御院参(日出之程、御冠直衣)前駈衣冠布衣相交。能季朝臣、在御共、予、退出。
於二条大路、逢武士。「自御所、已向朝雅宅」云々。予、入蓬門、小食休息之間、南方火見。「自御方放之」云々。「此間、已張陣、挑戦」云々。官軍甚少、「先登之輩、多中流矢逃帰」云々。京中怖畏、無物取喩。
此間、又、帰参三条坊門殿。予、示信定云、「若君、尤可御他所歟。此殿、已為戦場。事及危急者、尤不便歟」。信定申女房、「若君、此間御不例、仍他所之儀、無便宜」之由、女房被答、小時、兼時朝臣、参来、所陳同心。又、申女房、漸承諾。仍、召儲御車。猶、伺形勢之間、人々漸出来、追々令参院、兼時、又、参了。
巳時許、「官軍悉蒙疵。又、放火於三条面」云々。煙炎、如飛。此間、重催申女房寄御車、侍、一、両在御共。重季朝臣、予、信定在御共、坊門西行、町南行、五条東、東洞院南、奉渡女院御所了。予、即、参法性寺殿。奉謁宰相殿、申此事等。又、参九条殿、逢女房退出。参八条殿、又、退出。東洞院向北之間、七条辺、如障子、翠簾屋雑具棒持物、不知其数。相逢皆云、「武蔵已逃去。所壊取其宅也」。乍悦、馳帰、路頭、已無為。即、渡門前見之、六角宅寝殿、焼之程也。無常浮眼。
又、参坊門殿。召出侍、「可参九条殿」示之。各称「無馬」由。仍、取所具侍馬、令乗之。即、帰家。世間漸無為。
未時、「殿下還御」云々。仍又参、仰云、「武士、向戦場之間、御所一有情不残。仍、被鏁諸門。此間、無尺鉄歟。尤不便之間、今如此、冥助令然歟」。
暫祗候之間、申時許、又、人々云、「朝雅首、已以到来。金持と云武士、追得打取之。是又、私有意趣」云々。「持参院御所。於大炊御門面、御覧訖。持向松坂。懸之」云々。人々云、「時政朝臣、如頼家卿、被幽閉伊豆山、出家」云々。
申終許、天下忽無為、仍退出。
朝雅、夜前勤番候。于内、北面人々、見絵(蓮華王院)。相共見之間、所従来有密語。暫立問答後、復座、猶見絵。頗経程、「聊依急事、罷出。可帰参」由、触人々退出云々。此時初聞歟。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991253/221