倭国九州王朝説
※この記事は「邪馬台国茨城県説」の続編です。
大宝元年(701年)まで、北九州、もしくは、北九州~朝鮮半島南部に九州王朝「倭国」があり、太宰府(福岡県太宰府市)が首都だったという。
※奈良県の纏向から全国の土器が出土するのは、そこに首都があったからではなく、防人のように全国から徴集された東夷討伐軍の駐屯地(前線基地)だったからだとする。
●九州王朝「倭国」存在の証拠①「九州年号」
法隆寺釈迦三尊像の光背銘に書かれている年号「法興」などは、「大化」に始まる日本国の年号ではなく、九州王朝「倭国」で使われていた年号(通称「九州年号」)だとする。
●九州王朝「倭国」存在の証拠②「多利思比孤」
大和政権の聖徳太子は、隋に遣隋使を送ったというが、その隋の国史『隋書東夷伝』(『隋書』第81巻 列伝46 東夷 俀國)には、大王・阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ。天皇には名字がないが、実は「天」が名字であり、当時の大王(天皇)は天足彦(もしくは「天垂彦」で天から降臨した日子)だとする。『日本書紀』が卑弥呼に比定する神功皇后の本名・気長足姫(おきながたらしひめ)にちょっと似てる。余談であるが、台与は神功皇后の妹だという)が開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ってきたとある。
『日本書紀』によれば、当時の大王(おおきみ。天皇)は推古天皇(女性)であって、多利思比孤(男性)ではない。この倭国王・多利思比孤こそ、倭国王(九州王朝の王)だという。(天武天皇の前半生は謎であるが、福永氏によれば、多利思比孤の孫だという。)
九州王朝「倭国」の衰退の要因は、「倭国大乱」(東征して日本と合併)ではなく、天智天皇2年(663年)の「白村江の戦い」での敗北と、度重なった九州大地震だとする。
倭国は、百済国と共闘して敗北し、人口が激減した。その後、百済国の難民20万人が入り、倭国は一時的に「第二百済国」状態になってしまった。
天智天皇を継いだ天武天皇は、首都を、百済人があふれる大宰府から奈良盆地に移し、国号を「日本」と定め、国史『日本書紀』を編纂させて、他の史書を焼却し、古代に栄えていた出雲や九州は「神々の地」「神話の地」として、出雲国や倭国の痕跡を消して(出雲国王や倭国王の活躍を神々の活躍ということにして(たとえば卑弥呼は天照大神に変えたりして)、あるいは、遣隋使などの倭国の業績を日本国の業績として取り入れ)、法整備(『飛鳥浄御原令』→『大宝律令』)など、新しい国づくりを始めたとする。だから『日本書紀』には邪馬台国や卑弥呼は登場しない。
要するに、衰えた福岡県知事に代わって、新興の奈良県知事が「神武天皇が奈良県で日本国を建国した」とし、神武天皇以降の奈良県史を日本国史『日本書紀』としてまとめたということである。
また『日本書紀』『古事記』と史書が2種類あるのは、
・『日本書紀』は「紀」(歴史書)で『古事記』は「記」(物語)
とも、
・『日本書紀』は中国向け、『古事記』は国内向けの史書
とも、
・『日本書紀』は日本史、『古事記』は倭国史
とも。
以上、この「九州王朝説」については、「トンデモ説」だとして無視する方と、ファンの域を通り越して信者の域に達している方に分かれ、中間層はいないような気がしています。