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光明皇后の出自

鳳来寺では、光明皇后は、利修仙人と雌鹿の子だと言う。(雌鹿から生まれたのは光明皇后ではなく、浄瑠璃姫とも。)
 また、蘇我入鹿も鳳来寺の入鹿池で雌鹿から生まれたという。(本宮山、尾張富士、白山の尾張三山が囲む入鹿村(愛知県犬山市)で蘇我入鹿が亡くなり、江戸時代にため池「入鹿池」が作られたという話はよく聞くが、鳳来寺の入鹿池については知らない人が多い。)

光明皇后は鹿から生まれたので、つま先が2つに割れており、それを隠すために発明されたのが「足袋(たび)」だという。
 また、足袋の発明は、光明皇后にまつわる話ではなく、和泉式部にまつわる話だともいう。平安時代の女流歌人・和泉式部は、肥前国杵島郡錦江村の福泉寺(佐賀県嬉野市杵島)で生まれた。そのいきさつは、福泉寺の僧が、仏に供へた茶を裏山に撒こうとすると、白鹿が来て飲んでしまった。この白鹿は毎日現われて茶を飲み、女の子を産んだ。福泉寺に子授け祈願に来た大黒丸の夫婦が引き取り、9歳の時に京へ上って宮仕へを始め、和泉式部と呼ばれたという。
  ふるさとにかへる衣の色朽ちて 錦の浦やきしまなるらん(和泉式部)
 和泉式部は、鹿から生れた鹿の子であったので、生れながらに足の指が2つに割れていた。それを隠すために母親が足袋を発明したという。

■柳田國男『桃太郎の誕生』「和泉式部の足袋」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453050/248

話がそれたが、利修仙人の子を雌鹿が生むはずは無く、史実は門谷の「しか」という女性との子だという。
 伝説では、雌鹿は産里(うぶさと)村で女の子を産んだと言う。(産里村の田は「産(うぶ)田」と呼ばれ、収穫された米は鳳来寺で消費された。神社の神田のような存在で、今でも石塔が建っている。)利修仙人は、狼などに襲われないようにしたいが、煙巌山は女人禁制で育てられないので、文武天皇の治療の為に都へ行った時、藤原氏の門前に捨て(一説に御所の門前に捨て)、拾った藤原不比等が自分の娘として、光明子と名づけて育てたと言う。その縁で皇后となった光明子は、鳳来寺に扁額を贈ったと言う。

■鳳来寺の扁額
https://note.com/sz2020/n/nc94d7f49bcbe

  天武天皇
     ├草壁皇子【早世】─文武天皇─聖武天皇
  持統天皇(上皇)    利修仙人  ├孝謙天皇(重祚:称徳天皇)
                    ├光明皇后(藤原不比等の養女・光明子)
                                            しか

■『三河国設楽郡矢部村勅養寺縁起』
 仙人移万寿小庵練行時、大石窪所小便。妻鹿来喰此小便。仙不知此数月送来産子。容貌端正面相勝絶女産。狐狼所食収取養育漸成三歳。仙謂。仙室不可住女人。即仙作竹籠乗小女負之上奈良京捨置聖武皇内裏門。閑上下路竹籠負始也。橘氏取此女子養育。容貌勝絶宛如楊貴妃。照君十六歳初入内。天王納備后妃位。廿一歳王子誕生。孝謙天皇也。皇后御肌色甚鮮白従有光明。然則時人奉号光明皇后。漸成身以後思召、我己到皇后位。何無父母。橘氏雖養我非真実親。恋慕父母御意添日増夜。或時御守披覧玉、有一句文。云。「
南無薬師瑠璃光如来。南無一乗妙法蓮華経。南無当来下生弥勒仏。汝父法師也。汝母鹿也。我全不犯。但是石上湿生。若長大者可訪二親菩提」云云。此文披覧以後、弥懐親思玉事無忘時。仍修種々大善祈父母後世。或時夢云。「雖修善根、尚以不足」云云。則皇后然者可修何善哉可示之。其時、示之可修湯善云。夢覚即法華寺前立湯室、接往来僧衆后自磨僧垢此即若値我父法師乎。御謀計己歴数月後、癩病僧一人来入湯室。其時、皇后彼僧極醜臰、無可近付身様。其の時、病僧云。「大善無偏頗。弊僧何不被除哉。皇后無力乍惶磨其の垢給」。后云。「相構吾磨僧垢云事、不可有披露云」。后磨僧垢時、僧云。「悪しく候」云云。其の時云恐惶詞歟思召、後思之者「阿閦(あしゅく)候」云也。其の後、后、御手香、馥匂累日不失依此湯善阿閦仏来給也。阿閦即后親也。此即仙人也。仍此所建寺、安置阿閦仏。即薬師寺是也。当山薬師阿閦名乗給。阿閦薬師一体故也。諸国被立国分尼寺薬師於此時始。然者国分寺薬師以当山為根本云云。
https://note.com/sz2020/n/n881b51e716cd

【要旨】 利修仙人が万寿坂の小庵に住んで修行していた時、大石窪で小便をした。雌鹿が来てその小便がかかっている葉を食べた。そして、雌鹿は美少女を産んだ。娘が3歳になった時、利修仙人はこの娘を竹籠に入れ、奈良の都に捨てた。(これが山に行く時に竹籠を背負うことの起源である。)
 娘を橘氏(藤原氏の誤り)が拾って育てた。肌が白くて光輝いていたので「光明子」と呼ばれた。楊貴妃のような美人になり、16歳で入内、皇后となり、21歳で孝謙天皇を生んだ。成長するにつれ、本当の父母に会いたくなった。お守り袋を開けると「汝の父は法師也。汝の母は鹿也」と書いた紙が入っていた。光明皇后は、父に会いたい一心で、法華寺の前に湯屋を建て、僧侶の垢を拭いてあげていた。ある時、癩病(ハンセン病)にかかった僧が来た。垢を拭いてあげると、その僧侶が「悪(あ)しく候」言ったので、皇后はがっかりした。しかし、後に「阿閦(あしゅく)候」(阿閦如来のようだ)と言ったことが分かった。阿閦如来(薬師如来)とは父・利修仙人のことである。それで、皇后は、この湯屋の地に七仏薬師堂を建てた。(これが今の薬師寺である。)

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