『鎌倉殿の13人』44「審判の日」の再放送を視聴
実によくできた台本であった。
実際の「源実朝殺人事件」には謎が多いが、この『鎌倉殿の13人』の「源実朝殺人事件」には謎が全くない。
蓋然性が高い話であり、「これが史実か」と思いたくもなるほどである。
建保6年(1218年)戊寅7月9日戊寅。晴れ。夜明け前、北条義時は、大倉郷へ行き、南の山麓で良い土地を占い、お堂(大倉薬師堂。現・覚園寺。鎌倉市二階堂)を建てて、薬師如来像を安置するという。これは、先日、将軍・源実朝の鶴岡八幡宮の参拝の時、立ちあい、夜になって北条義時邸へ帰り、休息していると、夢の中で薬師如来を護る「十二神将」の内の戌神(じゅつしん)が、枕もとに来て言った。「今年の参拝(左大将就任のお礼参り)は無事だった。来年の参拝(右大臣就任のお礼参り)には、お供をしない方がいい」と。夢が覚めた後、とても不思議な気持ちがした。また、夢告の意味が分からなかったという。それでも、壮年になった当初から、薬師如来の2X6=12誓願を信仰していたところ、今、夢告があり、「信仰しないわけにはいかないので、1日も早くお堂を建てよ」と命令した。
この時、北条時房と北条泰時は、感心せず、諌言した。「今年は、将軍・源実朝の左大将就任のお礼参りで、京都から殿上人(公家)等が鎌倉に集まってきた。その間、御家人も、庶民も、多く散財し、嘆いているところに、その付けがまだ収まらないのに、お堂を建てるなんて、民を大事にする精神に背くのではないか」と。北条義時は、「これは私の身の安全のための願いである。百姓を煩わせるようなことはない。8日の戌の刻(午後8時頃)の医王善逝(薬師如来)の眷属・戌神のお告げなのだ。どうして思い立ったことを黙止できようか(いや、できない)」と仰せられ、大工を呼んで、設計図を与えた。
建保6年(1218年)戊寅12月2日。晴れ。北条義時は、夢告により草創した大倉新御堂に、薬師如来像(運慶作)を安置した。今日、開眼供養をした。導師(指導僧)は、荘厳房律師退耕行勇。願を称えたのは、円如房阿闍梨遍曜。お経や願文を渡す役は、頓覚房良喜(鶴岡八幡宮の供僧)であった。施主・北条義時と正室・伊賀の方は御簾の中、北条時房、北条泰時、北条朝時は、正面の濡れ縁に座っている。二階堂行光、二階堂行村、加藤景廉を始めとする御家人は、仏様と縁を結ぶため、群参した。源頼時、美作朝親、三条親実、伊賀仲能、藤原範高などが、お布施を渡す役であった。それぞれ、お堂の南側の仮設屋にいた。戌の刻(午後8時頃)、式典は終了。導師以下の僧侶にお布施を渡した。
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