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北条時行(『逃げ上手の若君』の主人公)

 アニメ『逃げ上手の若君』が7月6日から始まった。鎌倉幕府が滅亡した5月22日は、新暦の7月4日であるので、近い日を選んだのであろう。

※鶴岡八幡宮でのプレミア上映会は2週間前の6月23日に開催された。北条時行の命日5月20日は、新暦6月21日である。

※コミック最新刊(第16巻)は、ズバリ7月4日に発売された。


■出自

 アニメ『逃げ上手の若君』の主人公・北条相模次郎時行(ときゆき/ときつら)は、北条高塒の次男である。

  北条貞時┳北条高塒┳北条邦時(1325年生まれ)
      ┗北条泰家北条時行(1329年生まれ)

 『逃げ上手の若君』では、兄・北条邦時は側室の子であるので、北条時行が嫡男だとしているが、
・北条高塒の正室は、安達時顕の娘であるが、子を生んでいない。
・北条邦時の母は、北条高塒の側室・常葉前(五大院宗繁の妹(系図によっては娘))である。
・北条時行の母は不明だが、『太平記』では、北条邦時と北条時行の母親は共に北条高塒の側室・二位局だとする。ということは、常葉前=二位局となる。
 つまり、2人とも側室の子であり、北条邦時の「邦」は鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王(8月16日薨去)の偏諱であるので、北条邦時が嫡男であったことが分かる。(北条時行は出家させる予定であったという。)

 鎌倉幕府滅亡時、北条邦時は叔父(祖父?)・五大院宗繁、北条時行は諏訪頼重(『太平記』では諏訪頼重と同一人物とされる諏訪盛高)に預けられた。5月29日、北条邦時は、五大院宗繁の密告によって捕えられ、斬首になったので、北条時行が嫡男となり、北条家再興を託された。

★文献によって異なる北条時行の幼名
・勝長寿丸:『保暦間記』
・勝寿丸:『梅松論』
・長寿丸:『桓武平氏系図』
・亀寿:『太平記』(天正本では「兆寿」)、『太平記絵巻』
・全嘉丸または亀寿丸:『北条系図』
・熊寿丸:『群馬県史』
・桃寿:長坂成行

■中先代の乱(なかせんだいのらん)

 北条時行が有名なのは、鎌倉幕府再興のための反乱「中先代の乱」による。「中先代」とは、北条時行のことで、室町時代の呼称である。
・先代=北条氏(得宗家)
・中先代=北条時行
・当御代=足利氏(将軍家)

※ちなみに、『光る君へ』の「中関白家(なかのかんぱくけ)」とは、関白・藤原道隆を祖とする一族の呼称で、その由来については、
①藤原道隆は、父・藤原兼家と、弟・藤原道長の中継ぎだからとする説
②藤原道隆は、藤原兼家に次ぐ2番目の関白だからとする説
があり、12世紀前期に使われたという。

■妻と子孫

 北条時行の前室は諏訪大社の巫女、後室は熱田神宮の大宮司の娘とされ、他にも巫女を妾にしていたと伝えられています。
 『逃げ上手の若君』では、雫と結婚するかと思っていましたが、第151話で雫の正体が明かされて驚愕。

北条時行
┳行氏─時盛─行長─長氏(伊勢宗瑞、北条早雲【後北条氏の祖】
    ┣
時満─時任─時利─時永【横井氏の祖】…横井小楠
    ┣高持
    ┗豊島輝時─田中秀時【田中氏の祖】…岡野房恒【岡野氏の祖】

『佐野本系図』11「北条」上

時行 童名「亀寿丸」。号「相模次郎」。
 元弘3年癸酉5月22日、鎌倉滅亡之時、諏方三郎盛高、奉泰家命、抱時行奔信州、依諏方祝部寓居。
 建武2年乙亥7月、時行、起信州、催兵、攻入于鎌倉。追落足利直義、暫住鎌倉之処、重源尊氏、為討手下向、与之合戦不利。又、鎌倉没落。隠居山林。
 4年丁丑12月、降参宮方、従北畠顕家上洛、於摂州安倍野戦敗参吉野。
 暦応元年戊寅閏7月(或建武4年9月12日)属従義良親王。欲東征、乗舟、発勢大湊。至天龍灘、遭悪風、不得進、王子、還吉埜、時行、寓居勢州而改姓名、曰「伊勢次郎」云々。子孫繁栄。小田原北条祖也。鶴岡社務記曰「文和2年癸巳5月20日、相模二郎時行、長崎駿河四郎、工藤二郎誅、於龍口。
 今按、寓居伊勢有可疑者。

時行 童名(幼名)は「亀寿丸」。「相模次郎」と号した。
 元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府が滅亡した時、諏訪盛高(北条氏得宗家の御内人)は、北条泰家の命により、北条時行を抱きかかえ信濃国へ逃走したことにより、諏訪神党に匿われることとなった。
 建武2年(1335年)7月14日、北条時行は、信濃国で挙兵し、鎌倉に攻め込んだ(「中先代の乱」)。鎌倉にいた足利尊氏の異母弟・足利直義を追い落とし、7月25日、鎌倉を奪還した。暫く鎌倉に住んでいたところ、足利尊氏が北条時行を討とうと鎌倉へ向かった。この合戦は北条時行にとっては不利で、再び鎌倉は落とされ、北条時行は、(信濃国の)山間部に潜伏した。
 建武4年(1227年)12月、北条時行は、後醍醐天皇に帰順し、北畠顕家に呼応して上洛したが、北畠顕家は摂津国阿倍野等の合戦で敗れ、建武5年(1228年)5月22日、北畠顕家が石津合戦(大阪府堺市)で討ち取られると、北条時行は吉野行宮へ参上した。
 暦応元年閏7月(或いは建武4年9月12日)、北条時行は、義良親王(後の後村上天皇)と共に東征しようと吉野行宮を出て船に乗り、伊勢国大湊から出航したが、遠州灘で強風に遭って進めず、義良親王は吉野行宮へ戻り、北条時行は伊勢国に潜伏して改姓し、「伊勢次郎」と名乗った。子孫は繁栄し(伊勢宗瑞は北条早雲と名乗って)、「小田原北条氏の祖」となった。『鶴岡社務記録』には「文和2年(1353年)5月20日、北条時行、長崎駿河四郎(北条氏得宗家の御内人)、工藤二郎が龍口刑場で処刑された」とある。
 今思うに、(『鶴岡社務記録』には「伊勢次郎」ではなく「相模二郎」とあり)北条時行が伊勢国で(「伊勢次郎」と名乗って)住んでいたというのは疑わしい。

文和二年癸巳(中略)廿日 於龍口、相模次郞。長崎駿河四郞。工藤二郞被誅了。

『鶴岡社務記録』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920418/1/19

※戦国時代の北条氏は、北条時行の子孫だとされてきましたが、現在では、小田原北条氏(後北条氏)は、北条氏とは全く関係のない伊勢氏だとされています。
※後北条家に仕えた岡野氏は、北条時行の末子・豊島輝時の子孫だと自称している。

不明
行氏、時満、高持、豊島輝時
 江戸時代の系図では豊島輝時という人物が時行の子であると伝えられているが、信憑性は疑わしいとされる。また、『佐野本系図』は、時行が伊勢国(三重県)に渡って伊勢次郎と称し、後北条氏の祖である伊勢行氏(北条行氏)なる人物をもうけたとしているが、系図の編纂者自身はこの伝承に懐疑的である。

生存説
『佐野本系図』が掲載する説の一つによると、時行は延元3年/暦応元年(1338年)に義良親王や北畠親房らと共に伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(陸奥国霊山(現・福島県伊達市))へ渡ろうとするが、天龍灘で暴風に遭い伊勢国に戻されたという。そして、その際に姓を改め、名を「伊勢次郎」とし、伊勢国に住むようになったという。時行がもうけた子孫は繁栄し、小田原北条氏(後北条氏)は時行の子である行氏という人物の血を引いているという。ただし、『佐野本系図』の編纂者自身は、時行刑死の記録を掲載した後に、「今按寓居伊勢有可疑者」(今考えるに、伊勢に身を寄せたという話は疑うべきものがある)と述べている。

潜伏地
長野県の伊那地方(伊那谷・伊那市)には中先代の乱までに時行が潜伏していたとされる伝承地がいくつかある。
・高遠町三義の御所平
・高遠町藤堂御堂垣外の権殿屋敷かくれ久保
・伊那富県福地の時行屋敷
・中川村四徳の殿小屋、殿屋敷、鎌倉屋敷
・下伊那郡大鹿村大河原の桶谷

子孫の伝承がある家系
『群書類従』第21輯合戦部所収の戦記物『豆相記』(一説に1600年前後成立)は、『佐野本系図』と同様の時行が伊勢に渡ったとする伝承を記し、さらに時行の子が行氏、その子が時盛、その子が行長、そしてその子が氏盛すなわち後北条氏の祖である伊勢宗瑞(北条早雲)であると伝えている。ただし、現在の研究では伊勢宗瑞は室町幕府の有力な幕臣伊勢氏の一族とされている。
愛知県郷土資料刊行会が編纂した『尾陽雑記』では、時行と熱田大宮司家の女の間に生まれた時満(または行氏)の子である北条時任が愛知郡横江村に達し、さらにその孫で赤目城築城主・横井時永を横井氏(横江氏)のはじまりとしている(幕末に福井藩主松平春嶽の政治顧問として活躍した横井小楠もこの末裔を称していた)。
ほかにも伝承として信濃には時行と巫女の子の子孫と称する家が複数みられる。
黒田基樹は後北条氏第2代に数えられる北条氏綱の正室であった養珠院殿が後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(1)信濃国の伝承

★北条時行は、諏訪大社の巫女と結婚した。

 「信濃巫」(信濃国小県郡県村(長野県東御市県)から出て、全国各地を遊行した「歩き巫女」について、柳田國男は『信州隨筆』において、「ノノウ」と呼ばれる諏訪大社の巫女が、諏訪信仰の伝道師として全国各地を遊行したのが始まりとした。
 戦国時代には、望月千代女が甲斐武田氏のために「信濃巫」を「くの一」と呼んで訓練し、情報収集活動に使役したという。

■柳田國男『信州隨筆』
シナノミコ(信濃巫)といふ言葉も、少なくとも江戸期の関東地方ではよく知られて居た。(中略)死霊のみの口を寄せて居たやうだが、旅をする巫女たちには、是は寧ろ不向きな仕事であった。(中略)以前は多分諏訪の御社の霊験を説き、其神宜を伝達することが目的であったらうかと思ふ。

 北条時行が諏訪で転々と所在地を変えながら潜伏していたことは明らかで、その潜伏地の1つに「王家谷(おうけのたに)」があります。エジプトの王族の墓所のような地名ですね。(「御所平」の「御所」、「王家谷」の「王家」って、北条家(北条時行)ではなく、天皇家(「信濃宮」こと宗良親王)のような気がしますが。)
「王家谷」では隠れている事がバレバレなので、「桶谷(おけのたに)」に変えたといいますが、初めから桶のような形状の谷で「桶谷」だったのでは? また「桶屋」とも書きますので、桶を作る木地師が住んでいた谷のような気もします。

 北条時行の墓があり、「北条」を名字とする「北条四家」があったそうですが、昭和時代に小渋ダムが出来て水沈することになったので、3家は転居し、1家は近くに新築して北条時行の墓守りをしておられるそうです。

桶屋の里
 元弘3年鎌倉の滅亡した時、北條高時の遺子時行(當時龜壽)は諏訪盛高に負はれて信濃に逃れ、諏訪氏に倚つた。建武2年7月時行は諏訪氏に擁せられて兵を信濃に起し、進んで鎌倉を取つたけれど、間もなく足利高氏に攻められて沒落し、豆相の間に身を隱してゐたが、朝廷に請うて歸順し、延元3年北畠顯家と共に西上、美濃國靑野原等各所に轉戰の後、吉野に參向し、同年9月宗良親王に供奉して遠江國井伊城に入つた。のち信濃に來り諏訪·伊那の間を往來し、舊緣諏訪氏と相謀つて勤皇の武士を糾合し、興國元年6月伊那郡大德王寺城に兵を擧げた。けだし宗良親王の御旨を奉じたのである。守護小笠原貞宗府中より來り攻む。時行防戰に力め、支ふること5ヶ月に及んだが、10月に至つて城つひに陷つた。その後時行は相武の間に匿れ、また信濃にも潜行して親王の御經營を輔け奉つたと想像せられる。
 このやうに諏訪·伊那地方は時行の活動舞臺であり、潜伏地でもあつたから、これに關する遺蹟傳說が隨所に殘つてゐる。『長野縣町村誌』に上伊那郡藤澤谷の藤澤村北原のゴンドノ屋敷は北條權頭時方(時行か)居館の跡なるよしを載せ、その附近には北條の末流と稱する家がある。また同郡三義村にも北條の子孫と稱する家があつて、三ツ鱗の紋所を用ひ、同郡富縣村福地にも時行の屋敷跡と傳へる所があつて、その近くには北條姓の家もある。
 下伊郡郡大河原の南部、小澁川の兩岸に跨る桶谷には北條時行の潜匿地なりといふ傳說が殘つてゐる。頭屋敷は桶谷部落の入口、小澁川右岸、山麓臺地上の13間に16間の平地で、北條左馬頭時行の屋敷跡と稱せられ、その對岸の川に接近した字別當島の住地(じゅうち)屋敷は時行の從者別當の住つた所.、それより小澁の支流大白澤(しろさは)の深渓を半里登つた殿小屋と呼ぶ平地も時行從臣の隠れ場所といはれてゐる。
 今は廃道となつて通行人も稀であるが、飯田から來て生田村白須神社の前を通り、伊那山脈の中腹を迂囘して小澁川の岸へ下る九十九折の坂路を北條坂といひ、坂を下り切つた所の西北條部落の四戶は何れも北條姓を名乘り、本家の與一郞氏方には北條系圖を藏し、また川に臨んで丘上に聳立する巨樅の下には時行の墓と傳へる高さ1尺4寸の方碑があつて、「久昌禪定門」「盛林禪定門」と刻みつけてある。がしかし、此の石碑は戰國以前に上るものではないと思はれる。

『宗良親王』

(2)尾張国の伝承

★北条時行は、熱田神宮の大宮司家の娘と結婚した。

 北条時行は、熱田大宮司・千秋昌能の娘と結婚し、次男・北条時満を儲けた。

■略年表

東洲斎写楽 「三代目市川高麗蔵の廻国の修行者西方の弥陀次郎 実は相模次郎時行」

1329年12月    北条時行誕生
1333年5月18日 新田義貞、鎌倉攻撃開始(「鎌倉合戦」)
1333年5月21日 新田義貞、稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内へ。
1333年5月22日 北条一族&家臣283人、東勝寺で自害(「東勝寺合戦」)
          鎌倉幕府滅亡(北条時行ら3人のみ逃亡)
1335年6月23日 北条時行、諏訪で挙兵 
1335年7月24日 北条時行、第1回鎌倉奪還(「中先代の乱」)
1335年8月18日 足利尊氏、鎌倉奪還(「中先代の乱」)
1335年8月19日 諏訪頼重、自害
1337年12月23日 北畠顕家、第2回鎌倉奪還
1338年1月2日  北畠顕家、鎌倉を出立
1352年閏2月16日 北条時行、第3回鎌倉奪還
1352年2月13日 北条時行、鎌倉退去
1353年5月20日 北条時行、龍口刑場(神奈川県藤沢市)で処刑。享年25。


■解説動画集





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