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大田南畝が示唆した鱗形屋孫兵衛没落の真相ー大田南畝が残した暗号に迫る!ー

 鱗形屋孫兵衛が安永4年に日本初の黄表紙『金々先生栄花夢』を出すと、これが大流行! 次々と黄表紙を出版し、大金持ちになった。
 しかし、安永7年、突如として没落した。

───それはなぜか?

安永4年(1775年) 5月       重板発覚。
安永4年(1775年)12月27日 叱責と罰金処分。
安永7年(1778年)     没落(質入れの仲介発覚→江戸所払い)

 安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙の出版の先駆けとなり、同年には江戸の黄表紙30余点のうち10余点、翌安永5年(1776年)には30余点のうち10余点という具合に安永年間の黄表紙出版をリードした。
 しかし、安永4年(1775年)5月に、大坂の柏原屋与左衛門・村上伊兵衛の板株(版権)であった『早引節用集』を、鱗形屋の手代の徳兵衛が重版して『新増節用集』と銘うって売出していたのが発覚し、訴訟の結果、板木71枚、摺込本3400冊の内売れ残り分2800冊が没収され、12月には徳兵衛が家財欠所及び十里四方追放、孫兵衛が急度叱及び過料鳥目廿貫文などの処罰を受けた。
 さらに、旗本某家の用人が遊興のために主家の重宝を質入れしたのを仲介したことが発覚し、孫兵衛は江戸所払いに処せられ、安永10年(1781年)頃まで江戸に戻ることができなかった。
 これらの事件がきっかけで鱗形屋は没落し、孫兵衛は寛政年間まで版元を続けた後廃業した。廃業後は、永寿堂の初代西村屋与八の養子となり、後に二代目を継いだ孫兵衛の二男が鱗形屋の板行書の版権を譲り受けたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西山松之助『江戸町人の研究 3』(吉川弘文館)1974

【私の妄想】


 鱗形屋孫兵衛没落の原因は「旗本某家の用人が遊興のために主家の重宝を質入れしたのを仲介したこと」の発覚だという。このことは、当時の情報通の大田南畝はもちろん、庶民も知っていたであろうが、私が知る限りでは記録にない。なぜ記録に無いかと言えば、
・「旗本某家の用人」が凄い人だったから
・「主家の重宝」が凄い物だったから
ではないだろうか?
 妄想するに、「旗本某家の用人」は田沼意次で、「主家の重宝」は「三葉葵紋の入った徳川家康公ゆかりの品」であり、田沼意次は失脚し、鱗形屋孫兵衛は江戸から追いやられて鎌倉に住んだのではないか?
 徳川家の「三葉葵」紋のある物品の売買は御法度である。しかし、お金持ちの藩主は、密かに高価で買取、「戦功により徳川家康公より拝領した品」と家系図に書き加え、『寛政重修諸家譜』制作の資料として、幕府に提出したのであろう。

 たとえば小島藩であれば、藩主は滝脇松平氏であるから、三葉葵紋のある品々を所持しているし、藩士の倉橋格は、恋川春町の名で鱗形屋で戯作者として活動しているので怪しい。大河ドラマ『べらぼう』で、どう描かれるか楽しみである。

小島藩(おじまはん)
駿河国の庵原郡・有渡郡・安倍郡に所領があった藩。石高1万石の小藩で、元禄年間の立藩から幕末まで滝脇松平家が11代にわたって治めた。藩庁は庵原郡小島村(現在の静岡県静岡市清水区小島本町)の小島陣屋。
恋川春町
第5代藩主・松平信義の時代に年寄を務めていた倉橋格は、恋川春町の名で戯作者として活動したことで知られている。筆名は江戸藩邸所在地の小石川春日町から命名されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 さて、こういった事情をよく知っていた大田南畝は、

───そういえば、鱗形屋の紋は北条氏と同じ「三鱗」だよな。
───そういえば、「三鱗」は「三葉葵」に似てるよな。

ということで、「旗本某家の用人と地本問屋・鱗形屋孫兵衛」を「北条家御用人・佐野源左衛門と町人・鱗屋政兵衛」とし、さらに、江戸時代の江戸ではなく、鎌倉時代の鎌倉の話として描くことにしたのではないだろうか。そして、最後に

大あくびして目をさませば、これも又夢にして、火鉢にくべし粟餅の、まだやけぬ内

「以上の話は史実ではなく、火鉢にくべた粟餅が焼けないうちに見ていた夢の話である」とし、さらに最後の最後に「全部うそ八百巻」(【現代語訳】全部嘘ぴょ~ん)という地口で締めた。


 佐野源左衛門については、

御用人の佐野源左衛門殿、すかんぴんからおとりたてにて、にはかにおごりがつきいで、その時の全盛は、けはひ坂にて指折の加賀谷の梅が枝、越中屋の桜井、上野屋の松ゑだといふ玉ぞろへを一座にて、牽頭(たいこ)末社にいざなはれ、酒宴遊興にふけりしかば、あげくの果には、北条の家につたわる金の三ッうろこをとり出し、うろこやを頼み、七難そくめつとやらかしたり。

とある。「すかんぴん(貧乏藩士)であったが、取り立てられて御用人となると驕り、有名な遊女たちをはべらせての遊興三昧。遂に北条家の家宝「金の三鱗」を鱗屋に頼んで質に入れた」と、どこか田沼意次を思わせる描写になっている。
 物語は、質屋に入れた「金の三鱗」が利根川の大洪水で流され、「金の三鱗」がなくなったことに気付いた大殿・北条時政が怒り、佐野源左衛門は浪人、鱗屋は出入り禁止となったとする。
 さらに話は続き、牛のあとをついて行くと池に落ち、鯉が飛びあがって「金の三鱗」の龍となり、洪水で流された時、人間に化け、「鯉川春丁」(恋川春町?)と名乗っていたと告白するという荒唐無稽なものである。
 ただ、現代人にとっては「荒唐無稽な夢物語」であるが、当時の庶民は「あの話を上手い具合にアレンジしたなぁ。面白いなぁ」と感心しながら読んだのかもしれない。

【学説と私のReco説】


 大田南畝は鱗形屋孫兵衛没落の原因を鎌倉時代の話として明記していない。そこで、上のような妄想をしたくなるのであるが、記述に沿って暗号を解読してみた。
 
【学者の解読】
・北条時政の用人・佐野源左衛門=旗本某家の用人
・北条家の「金の三鱗」=主家の重宝
・佐野源左衛門が遊興費欲しさに主家の「金の三鱗」を質入れを画策
・「金の三鱗」の質入れを仲介した鱗屋政兵衛=鱗形屋孫兵衛
・利根川の大洪水で質屋が流れ「金の三鱗」が流出=質流れ
・北条時政にばれて佐野源左衛門は浪人、鱗屋政兵出は入り禁止=鱗形屋孫兵衛は江戸所払い

【私の解読】
・北条時政の用人・佐野源左衛門=徳川家治の御用人(老中)・田沼意次
・北条家の「金の三鱗」=「三葉葵」の徳川家のお金(幕府御用金)
・佐野源左衛門が遊興費欲しさに主家の「金の三鱗」を質入れを画策=幕府御用金を無謀な印旛沼&手賀沼の干拓(1782-1786)で浪費
・「金の三鱗」の質入れを仲介した鱗屋政兵衛=田沼意次に融資(投資)した鱗形屋孫兵衛
・利根川の大洪水で質屋が流れ「金の三鱗」が流出=利根川の大洪水で印旛沼&手賀沼の干拓が失敗し、使ったお金(御用金、融資)が水の泡。
・北条時政にばれて佐野源左衛門は解雇、鱗屋政兵衛は出入り禁止=徳川家治が亡くなると田沼意次は失脚(1786)

でいいかなと思ったのですが、鱗形屋孫兵衛の没落は1778年で、本の出版は1781年ですので当てはまらない(泣)。学説の勝ちという事ですが、
・北条時政の用人・佐野源左衛門=旗本某家の用人
ではなく、
・北条時政の用人・佐野源左衛門=徳川家治の御用人(老中)・田沼意次
(田沼意次は佐野氏傍流?)であり、
・北条家の「金の三鱗」=主家の重宝
ではなく、
・北条家の「金の三鱗」=「三葉葵」の徳川家のお金(幕府御用金)
であることは間違いないと思っています(負け犬の遠吠え)。

※以下はメンバーさん向けの「原文」です。

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