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司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑥

  五万石でも岡崎さまは
   お城したまで舟がつく
 と、いまでも座敷でうたわれたり舞われたりするが、この唄にある岡崎城は、徳川時代の模様のもので、堂々たる天守閣ももっている。が、家康が城主のあととり息子としてここでうまれて幼年期をすごした岡崎城というのは天守閣などはむろんなく、櫓や門の屋根もかやぶきで、当地は石の産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘ったその土を掻きあげて芝をうえただけの土塁がめぐっている。城の西側はずんと落ちくぼんで矢作(やはぎ)川が水をたたえて南流しており、西隣の尾張からの敵に対し、水の要害になっている。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』

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 「岡崎」の語源となった「尾ヶ崎」(鵜の尾)は「宇頭」(鵜の頭)とセットだとか、「岡崎」の旧称は「矢作(やはぎ)」だとか聞くが、「尾崎」「宇頭」「矢作」は矢作川の右岸の地名で、「岡崎」は矢作川の左岸の地名だと思われる。(右岸と左岸の違いは、さほど重要でないと思われた方もおられようが、矢作川は郡境なので(右岸は碧海郡、左岸は額田郡)、大きな違いである。)

■『宗長手記』「大永7年(1527年)4月の条」
それより矢矧(やはぎ)の渡りして、妙大寺、むかしの浄瑠璃御前跡、松のみ残て東海道の名残、命こそながめ待つれ、いまは岡崎といふ松平次郎三郎の家城なり。
※参考記事:「源義経と浄瑠璃姫」
https://note.com/sz2020/n/n921a0b784b2f

 『宗長手記』「大永7年(1527年)4月の条」に「妙大寺・・・いまは岡崎といふ」とある。私はこの文章を「松平次郎三郎清康(1511-1535。徳川家康の祖父)が居城を妙大寺城から乙川の対岸に移して、岡崎城と呼んでいる」と解釈しているが、「この周辺の地名「妙大寺」は、(松平次郎三郎清康が岡崎城を居城としたことにより)「岡崎」に変わった」と読めなくもない。
 さて、この妙大寺は、源義経が建てたという浄瑠璃姫の菩提寺で、巨大寺院であった。現在は塔頭の安心院が残るのみであるが、岡崎市明大寺町が妙大寺の寺域だと考えると、とてつもなく広い。

 ──妙大寺(現在の岡崎市明大寺町)は、三河国の中心地であった。

理由①:江戸時代の東海道は、岡崎城の北を通っているが、鎌倉時代の東海道「鎌倉街道」は、岡崎城の南、乙川の対岸の妙大寺を通っていた。(上の地図は、名鉄本線「東岡崎駅」に設置されている地図である。上が北ではなく南なので、注意を要する。)
理由②:矢作宿は東西(矢作川の右岸と左岸)に分かれ、右岸(西)に西矢作宿、左岸(東)に東矢作宿=妙大寺があったという。矢作川の増水時には、足止めされた多くの旅人が泊まったことであろう。
理由③:平安時代、三河国府は豊川市にあったが、鎌倉時代になって守護所が岡崎市(妙大寺)に移された。「三河七御堂」で有名な安達盛長の供養塔は国府近くの寺にあるので、妙大寺(矢作東宿)に守護所を設置したのは足利義氏であろう。

《三河国守護》
 ・鎌倉幕府
   安達盛長(1194-1199)
   足利義氏(1221-1252) 
   足利貞経(?〜1331)
 ・室町幕府
   高師兼(1337-?) 
   南宗継(1341-1342)
   高師兼(1345-1351)
   仁木義長(1351-1360)
   大島義高(1360-1373)
   一色範光(1379-1388)
   一色詮範(1388-1406)
   一色満範(1406-1409)
   一色義貫(1415-1440)
   細川持常(1440-1449)
   細川成之(1449-1478)

 室町時代になって、岡崎市仁木町を本貫地とする足利氏族・仁木義長が三河国守護になったが、彼は伊勢、伊賀、志摩、三河、遠江国の守護職を兼任していたため、三河国守護所にはおらず、三河守護代として、九州から呼び寄せた西郷氏が守護所にいた。
 後に、三河国守護職を西尾市一色町を本貫地とする足利氏族・一色氏が独占したが、岡崎市細川町を本貫地とする足利氏族・細川氏に替わった。
 寛正6年(1465年)、一揆軍が三河国額田郡井ノ口(愛知県岡崎市井ノ口)の井ノ口砦に立て籠もり、「額田郡一揆」を起こした。これを三河国守護・細川成之が鎮圧できなかったので、鎮圧は、室松幕府政所執事・伊勢貞親の被官である松平信光と戸田宗光が行った。鎮圧の報酬として、松平氏は三河国各地に領地が与えられた。これが、後の松平氏による三河国統一に繋がった。
 1479年以降、守護がいないのは、戦国時代に入ったからで、三河国が戦国時代に入ったのは、全国でも早い部類だという。

 ──『三河国二葉松』「三州古城記」によれば、岡崎城と2つの明大寺城があった。

・岡崎城:西郷弾正左衛門(清海入道)頼嗣が築城
・明大寺西城:足利尊氏御殿(実は足利義氏邸=守護所の横)
・明大寺東城:別名「平岩城」「岡崎古城」「明大寺岡崎城」

岡﨑城    往古、菅生村地と号す。大草青海入道之を築く。
       龍の蟠(わだかま)りたる形、尾が頭(さき)か知らずと云    
      ふ。和訓まで「岡﨑」と号す。
       今以て本丸の内に「青海堀」と云ふ処在て、子孫・西郷弾正
      左衛門無嗣、安条より養子。是を松平弾正左衛門信貞と云ふ。
      後、又、無嗣。清康公、聟養子と為し、清康公、広忠公、家康
      公3代御在城、云々。
明大寺古城 在2箇処。1箇所、足利尊氏御殿と云ふ。
      (平岩と云ふ所の)1箇所、西郷弾正左衛門、之を築く。

【意訳】
①岡崎城:岡﨑城がある場所を、今は「岡崎」と言うが、昔は「菅生」と言った。岡崎城を築いたのは、西郷弾正左衛門(清海入道)頼嗣である。
龍のとぐろを巻いたような形状の土地で、いづれが尾か、頭(さき)か知られず、「尾か頭」と言ったのを「岡崎」という字を当てて地名にした。
今も本丸の北側に「青海堀」と言う堀があり、築城者・西郷弾正左衛門(清海入道)頼嗣の名を残している。
 西郷頼嗣は、松平信光(岩津松平家)に攻められ、岡崎城(当時は龍城(りゅうがじょう)とも、竜頭山砦とも)を築いて対抗するも力及ばず、真福寺と滝山寺の住職が仲介して和議に至った。その内容は、「西郷頼嗣の娘と、松平信光の息子・光重を結婚させて「岡崎松平家」として岡崎城に入れ、西郷頼嗣は額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)に退いて隠居する」というものであった。

《岡崎松平家(大草松平家)》
 西郷頼嗣─松平①光重─②親貞─③信貞(西郷昌安)─④昌久…⑨正永

「西郷」と名乗った3代目松平弾正左衛門信貞(出家して昌安)の出自は不明である。松平親貞に子はおらず、安祥松平家からの養子説(『三河国二葉松』)、松平光重の子説(通説。『寛政重修諸家譜』など)、松平光重の弟(西郷頼嗣の子)説がある。松平信貞は、娘・於波留(春姫)を安祥松平清康(当時は山中城主)に嫁がせ、岡崎城を明け渡して大草に隠遁した(「岡崎松平家」から「大草松平家」へ)。こうして、岡崎城は、松平清康、その子・松平広忠、その孫・徳川家康の3代にわたる居城となった。

②明大寺古城:2つある。1つは足利尊氏の御殿で、もう1つは平岩にある西郷頼嗣の居城で「平岩城」ともいう。

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 明大寺城は、西郷氏が築いた城であるが、「妙大寺(現在の岡崎市明大寺町)にあった」ということしか分らない。
・龍海院の裏山「妙大寺山」にあった。
・岡崎六所神社の裏山にあった。
などと言われるが、太平洋戦争の岡崎大空襲の影響もあって、所在がはっきりしないと言う。龍海院裏の「明大寺山地」に自然科学研究機構があるが、住所は「岡崎市明大寺町本郷」(「本郷」は「西郷氏の本拠地」の意)であるので、ここにあったのではないかと思われる。
 もう1つの明大寺城は、「妙大寺山」の山麓の三河国守護所の横にあった三河国守護の官舎(屋敷城)だと思われる。乙川に「平岩」と呼ばれる巨岩があり、その近くにあったので、「平岩城」とも呼ばれている。最初に築いたのは足利尊氏ではなく、足利義氏であろう。
 つまり、『三河国二葉松』の
・明大寺西城:足利尊氏御殿(実は足利義氏邸=守護所の横)
・明大寺東城:西郷氏居城。別名「平岩城」「岡崎古城」「明大寺岡崎城」
ではなく、
・明大寺城Ⅰ:妙大寺山の西郷氏居城
・明大寺城Ⅱ:西郷氏居館。別名「平岩城」。
ではないかと思われる。

 西郷氏が築いた3つめの城は、対岸の菅生(すごう)の龍頭山にある「岡崎城」(当時の呼称は「龍頭山砦」、手元の史料では「龍城(りゅうがじょう)」)である。『覇王の家』には「城の西側はずんと落ちくぼんで矢作(やはぎ)川が水をたたえて南流しており、西隣の尾張からの敵に対し、水の要害になっている」(西から織田氏が攻めてくるのを防ぐ城)とあるが、当初の築城目的は、岩津城の岩津松平信光の南下を防ぐことであり、北側の「清海堀」が最大の要害であろう。

・享徳元年(1452年) 西郷稠頼、龍頭山に砦を築く。
・文明16年(1484年) 文献初出「オカサキ」(上宮寺「門徒次第之事」)
・大永4年(1524年)  松平清康が、龍頭山砦に入城。
・大永7年(1527年) 『宗長手記』に「岡崎」(松平清康の居城)
・享禄3年(1530年)  松平清康、安祥城の八幡宮を龍頭山砦に遷す。
・享禄4年(1531年)  松平清康、龍頭山砦を拡張して「岡崎城」と命名
・天文11年(1542年)   徳川家康、岡崎城で誕生。
・天正18年(1590年) 徳川家康の関東移封。豊臣家臣・田中吉政、入城。
            ※田中吉政、現在の岡崎城の原型を築く。
・元和3年(1617年)   天守完成。
・正保元年(1644年) 石垣完成。

★「岡崎」地名の語源諸説

「妙大寺=岡崎」説:西郷氏の城がある妙大寺が岡崎と呼ばれ、対岸にも西郷氏が城を築くと、そこも岡崎と呼ばれるようになった(【地名の拡張説】)。この説が正しければ、東岡崎駅周辺の地名は、「岡崎市明大寺町」ではなく、「岡崎市岡崎町」になってるはずでは?
・「岡崎=矢作宿」説:岡崎市教育委員会は、『宗長手記』の「妙大寺・・・いまは岡崎といふ」を、「「妙大寺(東矢作宿)」のことを、今は「岡崎」という」と読んだようだ。岡崎(江戸時代の東海道の岡崎宿)は乙川の北岸で、妙大寺(鎌倉街道の東矢作宿)は乙川の南岸で、別の場所であり、別の名で呼ばれていたのでは?
・「岡崎=城名」説:『三河国名所図会』に「岡崎は享禄以来の名号にして、其れ以前は菅生郷なり」と記載されているため、享禄4年(1531年)に松平清康が「龍頭山砦」を「岡崎城」と命名して生まれた地名だと考えらる。(とはいえ、初出は文明16年の史料の「オカサキ」、大永7年の『宗長手記』にも「岡崎」とある。)

 語源はともかく、岡崎城を築いた場所が「オカザキ」であり、それに「岡崎」という漢字を当てられていたのを松平清康が城の名に使ったので広まったのであろう。

 西郷氏は、対岸の菅生郷の龍頭山に「龍頭山砦」を築いたというが、この菅生や龍頭山があるのが「尾ヶ崎(おがさき)原」である。(「尾ヶ﨑原」の北が「能見ヶ原」。)
 徳川家康が「引馬城を浜松城に改称した」という史実を、「徳川家康は、従来の地名「引馬」を使わず、「浜松」という地名を創作して使った」と解釈される方がおられるが、引馬宿は、浜松庄の一部である。「引馬」という地名が敗戦を意味するようで縁起が悪いとして、荘園名「浜松」を使ったのである。松平清康にしても、村名「菅生」、山名「龍頭山」、「尾ヶ崎原」から生まれた「岡崎」の3つ中から「岡崎」を選んだだけであって、松平清康の創作でも、城の名前から地名が生まれたのでも、「城地のみをさした名前」でもないであろう。

★参考記事「Q.岡崎の名前の起源、成り立ち、簡単な歴史紹介をしていただけませんか。」
回答「名前の起源は、岡崎城の築城時に土地の形勢が龍蛇のとぐろを巻くようで、「いづれが尾か頭(さき)か知られず」から岡崎と名付けた説がありますが、元来丘陵の出崎であることから地勢そのままを取って名付けたものと思われます。初めは城地のみをさした名前でした。
 文書にみられる岡崎の地名には、古くは矢作宿があり、承久3年(1221)に没した飛鳥井雅経の「明日香井和歌集」や貞応2年(1223)の「海道記」にその名があります。他に「源平盛衰記」「平家物語」などにもあり、この矢作宿がのちに岡崎と呼ばれるようになりました。「岡崎」の初出は文明16年(1484)の上宮寺「門徒次第之事」に「オカサキ 一箇所」とあり、また連歌師宗長の「宗長手記」には、大永7年(1527)の記述に「今は岡崎といふ。松平次郎三郎の家城なり。」とあります。」(岡崎市教育委員会)
https://www.city.okazaki.lg.jp/faq/006/171/p031773.html

【『覇王の家』の分析読み】

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「五万石でも岡崎さまはお城したまで舟がつくと、いまでも座敷でうたわれたり舞われたりするが、」 今もお座敷で・・・筆者未確認。「先生」と呼ばれる立場になれば、赤坂の料亭で確認できる?

「この唄にある岡崎城は、徳川時代の模様のもので、堂々たる天守閣ももっている。が、家康が城主のあととり息子としてここでうまれて幼年期をすごした岡崎城というのは天守閣などはむろんなく、」 正しくは「天守閣」ではなく「天守」。

「櫓や門の屋根もかやぶきで、当地は石の産地ながら石垣などもなく、」   石都・岡崎市は、良質な花崗岩(御影石)の産地であり、「日本三大石品生産地」(岡崎市​、香川県庵治町、茨城県真壁町)の1つである。特に神社の狛犬は岡崎量産型が多く、狛犬マニアの間では「岡崎くん」と呼ばれている。(最近は安価な台湾型も増えてきている。)
 なお、岡崎が「石都」と呼ばれるようになったのは、城主として田中吉政が岡崎城に入って以降とされる。

参考記事:日本石材工業新聞「石都・岡崎産地の歴史」
https://nskonline.jp/2017/01/2147.html

「ただ堀を掘ったその土を掻きあげて芝をうえただけの土塁がめぐっている。」 これを「掻上城」といい、土豪の山城に多い。

「城の西側はずんと落ちくぼんで矢作(やはぎ)川が水をたたえて南流しており、西隣の尾張からの敵に対し、水の要害になっている。」 上述のように、この地に西郷氏が築いた城は、北から(岩津城から)の攻めに対抗するためであり、ポイントは北側の堀であった。


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