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知多半島の「浦島太郎伝説」(愛知県)

 「浦島太郎伝説」が丹後の海部氏の伝承であれば、「同じ系図を持つ同族(丹波系氏族)の尾張氏も「浦島太郎伝説」を持つのでは?」と検索したところ、ヒットしました。

<武豊町>
①「浦島太郎」と言う名の由来:浦之嶋に生まれ育った漁師の太郎
負亀の松:「富貴」という地名の由来。四海波の宮城。
乙姫橋:竜宮城の入り口
竜宮が浜竜宮神社
⑤知里付神社の「あけずの箱」(玉手箱) :中身は雨乞いの面
浦島神社(知里付神社境内)
真楽寺:浦島太郎が助けた亀の墓
⑧地名「塔の下」の由来:浦島太郎が亀に乗った場所が見える丘の
うめきの浜:浦島太郎が白髪の老人となった浜(現・梅ノ木)
⑩弘法大師お手植えの負亀の松。竹、梅ではなくカキツバタ

<美浜町>
翁塚
浦島観音

 浦島太郎伝説は、北は北海道の湧別町から南は沖縄、与那原町まで日本全国四十件余りの地に伝説として残り中でも、知られているのが「木曾の寝覚ノ床」、釣りバカ日誌の舞台になった丹後の国の「伊根」と神奈川の「横浜」、鹿児島「開聞岳」があります。が、ここ武豊の富貴にも古くから「浦島太郎伝説」があり、「浦島太郎探検隊」が発足して学校等での教宣活動を行っています。
 浦島物語の起源は諸説あり、浦島の話が文献にでるのは八世紀の「日本書紀」、「丹後国風土記」が最も古く 「浦島太郎は、浦嶋子」、「竜宮城は蓬莱山」、「玉手箱は、玉くしげ(化粧箱)」と呼ばれ、現在の「浦島太郎伝説」は、「丹後国風土記」の逸文によるものとも言われているが、実は中国の長江流域に「洞庭湖の竜女」という民話があり、その文面が日本に伝わる浦島太郎伝説そっくりで、この話は、六朝時代に編集された「拾遺記」にあるがその原本が東晋の時代五世紀に書かれた物で、日本の書物よりずっと古い、しかるに中国南部にあった民間伝承が日本に伝わったとも言われている。
 話の起源はそれくらいにして ここ富貴の地には、浦島太郎に関する地名が多く残っており、 浦之嶋、塔の下、梅木、浦島川、そこに架かる浦島橋、四海波史跡として、負亀の松、竜宮神社、乙姫橋、浦島神社、知里付神社の玉手箱等あり、亀のお墓の真楽寺があります。
隣の美浜町布土には、翁塚、浦島観音があります。一つの地でこれほどの「浦島太郎に関わる名前のあるところは、日本広と言えどもここ武豊の地しか無く、「ここが浦島伝説の本家」だと自負している。
まずは

一、浦島太郎と言う名前の由来じゃが、実は浦島太郎と言う名前の者はいなく、ここ浦之嶋に生まれ育った漁師の太郎がそう呼ばれるようになったと言われている。

二、負亀の松
浦の島の太郎が助けた亀に乗せられて竜宮城に行ったところで、ここ富貴の地名もここから取ったともとも言われています。
当時は、この海岸線は松並木があり、白い砂浜であり、知多の有数な海水浴場として有名なところでした。
この沖合(中部電力火力発電所」のあるところ)に宮城があり、その地は四海波と呼ばれていて最近まで名鉄四海波駅がありました。又、大きな料亭もあり、地名もありましたが現在は面影もない。県内屈指竜宮海水浴場は海水浴場の階段は一部残っているが伊勢湾台風により破壊された。

三、乙姫橋
竜宮城の入り口
ここの地は、四海波と呼ばれ、「塩湯治」つまり知多の有数な、海水浴場であったが昭和三十四年の伊勢湾台風でかっての風景は破壊されたが、乙姫が太郎を出迎えた乙姫橋は無こされた。当時の太郎と乙姫の竜宮ロマンが忍ばれる。

四、竜宮神社
浦島太郎は竜宮城から故郷に帰ってきたが、三年間(数百年)たった今では、知る人も居ず、さびしい毎日を過ごしていたが、太郎が竜宮の乙姫を忍び竜宮が浜(現在の竜宮保育園)に建立した。

五、知里付神社
浦島太郎が持ち帰ったと言われる「あけずの箱」(玉手箱) が祀られていると言われている神社で、そもそも知里神社は「武豊のむかじばなし」には、あけずのの箱には「天の御柱・国の御柱」と呼ばれる「おきなとおうな」の一対の面が入っていると言われ、この地が長い日照りが続き田畑は干上がり、飲み水にも困るような大干ばつにみまわれた時に、知里付神社の神主は朝早くに清められた舟に「あけずの箱」を持ち乗り込み海に漕ぎ出しました。
岸では舟を見送った村人たちがお伊勢さんの方角に向かい一心に雨乞いの祈りをしました。
沖に出た舟の上では、神主が「あけずの箱」の蓋を開くと、どうでしょう、空はにわかに曇り、待ち焦がれた雨が降り、田畑を潤したということです。
又、ここ、知里付神社は「たけとよ昔話」の中で知多の 郡が伊勢神宮にお供え物を奉る(たてまつ)「ニエシロ郷」になる要因となった神社で、天照大神のお社を建てるべくその地をヤマトヒメが探し歩いたがなかなか大神さまの気に入った地がなくここ尾張の国知多の小郡にたどり着いた。
この地の風土、気候、人々がたいそう気に入られ、ヤマトヒメは、ここ富貴村にお社をを建てて大神の御心を伺うことにしたそうです。
その後、天照大神の社は伊勢の地に決まり現在伊勢神宮として全国民の信仰を集めています。
その後、この地が大神様のお供え物を奉るに「ニエシロ郷」となりその時建てたお社は「知里付神社」と名付けられ、この地にあった、八つの池で育てた魚を海路伊勢まで送ったという話です。
「ニエシロ郷」は全国で・静岡県浜名湖の北岸・三重県多度山の麓・そしてここ知多郡の三か所だけだといわれています。

六、浦島神社
村人たちが浦島太郎を敬い知里付神社境内に建立したものです。

七、真楽寺
この寺は、元亀元年(一五七〇年)八月創立
浦島太郎が助けたと言われる「亀のお墓」があります。

八、塔の下
浦島太郎が竜宮から帰郷した記念に亀に乗った場所が見える丘に塔をたてた場所だと言われています。

九、うめきの浜
太郎が玉手箱を開け、苦しみ呻き白髪の老人となった浜でその為、「うめきの浜」と言われ現在の、武豊と美浜町の境「梅ノ木」がその場所だと言われ、美浜町には「翁塚」、「浦島観音」があります。

浦島太郎伝説 | 愛知県知多半島・武豊町観光協会のオフィシャルWebサイト (taketoyo.info)

◎「浦島太郎伝説は、北は北海道の湧別町から南は沖縄、与那原町まで日本全国四十件余りの地に伝説として残り」とあるが、伝承の数え方には、「知多半島」で1件と数えるか、「武豊町」と「美浜町」で2件と数えるか、「武豊町」9件と「美浜町」2件で11件とする数え方があり、数え方によっては全国に150件以上の伝承があるという(浦島太郎を祀るのは海部氏だけではない!)。

◎「北は北海道の湧別町から」とあるが、湧別町の「竜宮街道」は、文人・大町桂月が、この地の砂州を「まるで龍宮へ続く道のようだ」と形容したことからこの街道名がつけられただけで、浦島太郎伝説は無いという。(「浦島太郎伝説」の北端は青森県だと思われる。)

◎「洞庭湖の竜女」と言っているのは、多分、日本人だけで、中国では「洞庭山仙女」という。「その文面が日本に伝わる浦島太郎伝説そっくり」とあるが、そっくりではない。ただ、日本語訳では、洞庭山→洞庭湖、仙女→竜女、金堂→竜宮城等々変更され、そっくりな話になっている。
「洞庭」とは「巨大な洞窟」という意味で、ある人が君山に薬石を探しに行って洞窟に入って迷う話であるが、日本語訳では、ある男が薬草を採りに行く・・・という話に変えられている。
 300年後に帰ってきて9代孫に自分の話を聞いたというのは、浦島太郎が9代孫の淳和天皇妃と会った話に対応している。

◎「五、知里付神社」は、愛知県知多郡武豊町東大高池田にある神社で、三河国二之宮の式内・知立神社(愛知県知立市西町神田)とは異なる。(同じ社号なのに、ご祭神が異なる。)
 「あけずの箱」(玉手箱) の中身が雨乞いの面という話は、空海が雨乞いの祈祷において、玉手箱を開けると紫色の雲が湧き出て雨が降ったという話を思い出させますね。

◎「富貴(ふき)」という地名は、「負亀」(おぶがめ)の音読みの「フキ」が転化したものだというが、これは1つ説に過ぎず、『尾張名所図会』には「農商のここ(注:富貴城の城下)に依る者多くは富貴せりとて、その頃(注:戸田氏が富貴城を建てた頃)より、かく村名を呼びならはせりとぞ」とある。


知多半島の伝承地は、「尾張氏関連地」というよりは、「伊勢神宮関連地」のような気がします。
浦島太郎と伊勢神宮の関連については、水野祐氏の著書を参照のこと。

『古代社会と浦島伝説(下)第2部 伊勢神宮の創祀と古代漁撈文化』
1975年4月10日初版発行(雄山閣出版)
 第1章 丹波系氏族と浦嶼子伝説
 第2章 日本古代漁撈文化の概要
 第3章 日本における海女文化の展開
 第4章 伊勢神宮の祭祀と浦嶼子伝説 
 第5章 結論


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