見出し画像

定光山金地院(静岡県浜松市)

・定光山金地院
・住所:静岡県浜松市北区細江町気賀
・宗派:臨済宗妙心寺派
・御本尊: 薬師如来(枇杷の葉治療)

画像3

 山号は定光山(じょうこうざん)。宗派は臨済宗妙心寺派。開山は紀州興国寺法燈国師の法孫杲巌(こうがん)和尚。建武年間(1334~6)の創建と伝えられている。
 南北朝の時代、井伊家は南朝方について、当地域の北朝方の勢力と争いました。後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねながしんのう)は、当時の井伊家を訪れ、三岳城を拠点として戦いました。しかしながら、当地域の南朝勢力は北朝方に一掃され、親王も信州に逃れ、井伊家もいったんこの地域の拠点を失いました。
 延元3年(1338)3月、親王が出陣のため井伊谷を出立された際、妃の駿河姫(井伊直政の娘)も見送りのため同行されました。しかし、この地に到って姫が急逝されたため、その葬送を金地院に仰せつけ以後、姫を寺の開基として祀っています。寺には「金地院殿慶岩寿永大禅定尼」という位牌があります。山門の西の果樹園の中に「岩神」という石碑があり、その周辺に姫は葬られたと伝わっています。江戸時代の朱印高は3石。また、南の姫街道沿いにある二宮神社は、姫の他界の地に創建され、姫を祭神とし、伝記が伝えられています。
 安政6年(1859)勤皇の書家、永知楽(えいちらく)が当山にて自刃、墓とその書があります。
 明治9年(1876)の火災により、観音堂(享保14年1729建立)と山門(天明8年1788建立)を残して焼失、荒廃しました。
 明治43年(1910)大圭和尚が住職として入り、枇杷の葉治療によって多くの難治の病者を救済し、子弟育成、蜜柑栽培などの刻苦勤勉の結果、本堂をはじめ諸堂于を再建しました。本堂完成(昭和3年1928)のおり、枇杷の葉治療の因縁から本尊を薬師如来に改めました。その頃、元妙心寺派管長、山田無文老師が当山にて出家されました。
 昭和55年(1980)鐘楼を再建、平成20年(2008)、位牌堂、庫裏等を再建。

※駿河姫は、宗良親王の妻の名とされているが、妻の母親(駿河三浦氏の娘)の名ではないだろうか?

 後醍醐天皇
   ├───宗良親王(信濃宮、大草宮、幸坂宮、尊澄法親王)
  二条為子   ├┬桜子姫【井嶋氏の祖】:洞雲寺
         │ └尹良親王 (源尹良)
        │   ├──────────────┬良王【大橋氏の祖】
 井伊道政   │ 琴姫(世良田政義の娘)  ├良新 【氷室氏の祖】
   ├─井伊重子(駿河姫):金地院      └崎之宮(夭逝)
 三浦宗久の娘【駿河三浦氏】

※「三方ヶ原の戦い」の後、武田信玄が軍資金を埋め、「金地院」と改名したとする埋蔵金伝説の寺である。

画像4

画像5

画像6

画像7

■写真展

画像1

画像2

 ★続きはサークルで。

いいなと思ったら応援しよう!

レコの館(やかた)
記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。