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「藤原氏」とは何者か?

───「藤原氏」とは何者か?

 義務教育レベルで解答すれば、中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った姓が居住地(奈良県高市郡明日香村小原。明治時代まで藤原寺鎌足誕生堂)があった)の地名による「藤原」であり、「藤原氏」とは、「藤原鎌足と彼の子孫」ということになる、

───「中臣氏」はどこから大和国へ来たか?

 藤原氏の氏社氏神社とも)である春日大社の御祭神を御存知であろうか?
 春日神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の総称)である。

・武甕槌命(鹿島神宮)、経津主命(香取神宮)=藤原氏の氏神
・天児屋根命、比売神(枚岡神社)=中臣氏の祖神

 武甕槌命は鹿島神、経津主命は香取神であるので、藤原氏は大和国の東の果て(その先は太平洋)の日立国(日高見国)から大和国に来て、中臣氏は大和国の西の果て(その先は瀬戸内海)の河内国の日下(ひのもと。物部氏東進後の本拠地)から大和国に来たと考えられそうである。(藤原氏について、『藤氏家伝』では大和国高市郡出身としているが、『大鏡』では常陸国出身としている。)

※「中臣氏」とは「神と人との中を執り持つ氏族」であり、神武天皇元年(紀元前660年?)の神武天皇の即位式では、祝詞をあげたという。なお、「元春日」枚岡神社の創建は神武天皇3年だという。

 中臣氏が全員「藤原」と改姓したのではなく、文武天皇の勅命により、改姓は藤原鎌足と彼の子孫だけであった。藤原鎌足の子・藤原不比等は、大宝令官制で太政官と神祇官が並び立ったことに対応させて、藤原家を政治担当の家、中臣家を神事担当の家として区別した。中臣氏は天岩戸開きに於いて祝詞をあげた天児屋根命の子孫であるし、藤原氏は、国譲りの交渉をした政治家・鹿島神(天児屋根命の父)と香取神(鹿島神の剣)とに結びつけたのである。


───いや待て、そうは言っても藤原氏∈中臣氏だぞ!

 藤原氏の祖は中臣氏と同じく天児屋根命と考えるべきであろう。

───天児屋根命はどこにいた?

 普通は、武甕槌命=天児屋根命の父ですが、『八幡愚童訓』によれば、天児屋根命=筑前国の鹿島神=玄界灘の海神・安曇磯良だそうです。
 『古語拾遺』には、武甕槌命=「玄界灘の海神」天照(あまてる)大神こと天照国照彦天火明櫛玉甕速日神(物部氏の祖神)の子とあります。

 甕速日神(物部氏)ー武甕槌命(藤原氏)ー天児屋根命(中臣氏)

※安曇磯良:海人族・安曇氏の海神。初耳の方がおられるかもしれないが、日本国家「君が代」は、安曇磯良を讃える歌だそうです。
春日大社の若宮(ご祭神は天児屋根命の子の天押雲根命)のおん祭の細男。

───繋がった!

 中臣氏は、北九州の物部氏の部下で、玄界灘に浮かぶ対馬に居住していた卜部氏の一族である。つまり、物部氏の東進に伴い、物部氏の畿内の本拠地・日下に住み、河内国一宮の枚岡神社(大阪府東大阪市出雲井町)に祀られた後、大和国入りして「中臣」の姓を得た。
 春日神が春日野にご鎮座する前、一時的に安倍山(奈良県桜井市)におられたが、今、そこには宗像神社がある。玄界灘繋がりなのだろう。(常陸国の鹿島神宮も、筑前国の宗像神社も、神官は卜部氏だったという。)

───大和国の神事担当は忌部氏だった。

 春日大社に祀られている比売神は、枚岡神社によれば、天児屋根后ということであるが、『春日権現験記』では天照大神だとする。天児屋根命は、天岩戸開き以来、(まるで持統天皇に寄り添う藤原不比等のように)べったりとくっついていたので夫婦に間違えられたのだという。

(ちなみに、645年生まれの持統天皇と659年生まれの藤原不比等の仲がいいのは、姉弟だからとする藤原不比等皇胤説があるが、天智天皇の御子の可能性が高いのは次男・藤原不比等の兄の長男・定恵だという。)

 中臣氏が大和国へ入った時、神祇担当は蘇我氏傘下の忌部氏だったというが、蘇我氏が没落すると、大和国から出て行った(追い出された?)という。

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