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『築山殿異聞』(2/3)離婚と再婚

 築山殿と徳川家康の離婚について、磯田道史先生は、浜松市の広報誌「広報はままつ」に連載の『磯田道史のちょっと家康み』「第十一話 乱世の狭間に生きた築山殿」で次のように書いておられる。

 信康と亀姫は、母・築山殿のことを強く慕っていましたが、家康公は、徳川家の将来を考え、築山殿と離縁したとみられる史料もあります。『別本当代記』です。これによれば、家康公は、子どもたちに分からぬよう、築山殿を鳳来寺へ花見に行かせ、その間に使いを出して離縁したとされます。その後、築山殿はまず伊勢で再婚後、離婚。京の清水寺に身を寄せ、真偽不明ですが、越前の朝倉義景の側室になったとも記されています。程なく、朝倉家は織田軍に滅ぼされ、再び流浪の身となりました。そこで、信康が、母親の窮状を見かね、家康公に引き取らせてほしいと訴え、引き取り先の住まいを、信康の居城、岡崎の築山に建てた。以来、築山殿と呼ばれるようになりました。築山殿は、それまでは「駿河の御前」と呼ばれていました。

『磯田道史のちょっと家康み』「第十一話 乱世の狭間に生きた築山殿」(「広報はままつ」)
https://www.tokugawa-bushotai.jp/episode/ep11/
https://doglle-house.jp/about/hamamatsu/ieyasu/

 徳川家康と築山殿の離婚時期は、以前から永禄5年(1562年)とされてきた。「清須同盟」締結にあたり、織田信長が「今川氏との完全な手切れ」を要求し、築山殿と離婚することになったという。しかし、同盟締結の条件である婚姻(『どうする家康』では、徳川家康とお市の方の婚姻)がなされなかったので、同盟締結には至らず、休戦協定に留まり、今川義元の縁者である築山殿は、三河国平定において利用価値があるとして、別居に留められたという。

 その後、信康と五徳が結婚して同盟締結となり、徳川家康も築山殿の威光のおかげか、三河国平定を平定し、これまた築山殿の威光のおかげか、遠江国へも侵攻できたので、永禄13年、築山殿と離婚した。離婚の理由は、主治医・元慶との不義密通とされた。

 離婚後、築山殿は、伊勢国(再婚)→山城国→越前国(再々婚)→河内国と移ったが、岡崎城主が徳川家康から徳川信康に替わると、徳川信康は築山殿を岡崎城の東曲輪に入れたという。
 ただし、学者はこの放浪(『野史』等)と放浪期間中の再婚および再々婚(『古老茶話』等)を認めていない。磯田道史先生も『別本当代記』の記述内容について「真偽不明」としておられる。

永禄五年、夫人嫉忌益甚しく、婦德肅まず、之を伊勢に徒す。夫人勢、越の間に遜るるや、信康、私に迎へて諸を岡碕に置く。而る後、夫人、孺人織田氏を猜忌す。織田氏又妒み、夫人と屢相惡む。夫人之を信康に短(そし)る。寵日に衰ふ。夫人、疾有り。甲斐の医・減慶(或いは滅慶に作る)と姦し、密かに不軌を謀る。(後略)

【意訳】築山殿は、嫉妬心が強く、つつましく無かったので、徳川家康は、永禄5年、離婚して伊勢国へ追放した。築山殿は、伊勢国から越前国にかけて放浪していたが、徳川信康が自分の考えで岡崎城へ迎い入れた。築山殿は(今川義元を討った)織田信長を怨み、織田信長もまた(愛娘をいじめた)築山殿を怨んでいた。築山殿が織田信長の悪口を言うので、徳川信康も、日に日に嫌気がさしてきた。築山殿は、疾病(しっぺい)にかかり、治療で知り合った医師・減慶と情を通じ、彼を通して武田勝頼と知り合い、織田信長を倒す策を密かに練った。)

※以下は個人的な【覚書】です。

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