築山殿と徳川家康の離婚について、磯田道史先生は、浜松市の広報誌「広報はままつ」に連載の『磯田道史のちょっと家康み』「第十一話 乱世の狭間に生きた築山殿」で次のように書いておられる。
徳川家康と築山殿の離婚時期は、以前から永禄5年(1562年)とされてきた。「清須同盟」締結にあたり、織田信長が「今川氏との完全な手切れ」を要求し、築山殿と離婚することになったという。しかし、同盟締結の条件である婚姻(『どうする家康』では、徳川家康とお市の方の婚姻)がなされなかったので、同盟締結には至らず、休戦協定に留まり、今川義元の縁者である築山殿は、三河国平定において利用価値があるとして、別居に留められたという。
その後、信康と五徳が結婚して同盟締結となり、徳川家康も築山殿の威光のおかげか、三河国平定を平定し、これまた築山殿の威光のおかげか、遠江国へも侵攻できたので、永禄13年、築山殿と離婚した。離婚の理由は、主治医・元慶との不義密通とされた。
離婚後、築山殿は、伊勢国(再婚)→山城国→越前国(再々婚)→河内国と移ったが、岡崎城主が徳川家康から徳川信康に替わると、徳川信康は築山殿を岡崎城の東曲輪に入れたという。
ただし、学者はこの放浪(『野史』等)と放浪期間中の再婚および再々婚(『古老茶話』等)を認めていない。磯田道史先生も『別本当代記』の記述内容について「真偽不明」としておられる。
※以下は個人的な【覚書】です。