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猪鼻氏

「四国古事記」論者によると、古代、四国は「伊国」と「予国」に分かれており、その証拠に、旧「伊国」の周囲には「猪鼻」(「伊国の端」の意)地名、中央には「猪頭」(「伊国の中心」の意)地名が残っているという。

───「伊国」存在の証拠になっていない。

古代、「伊」は「い」、「猪」は「ゐ」で、発音が異なるからである。

そもそも「猪鼻」地名は四国に限らず全国にある。
その語源は、「猪の鼻のように尖がった地形」だと言う。

 中でも有名なのが、鵺退治で有名な猪鼻氏(猪早太)の本貫地である浜名湖の「亥の端」(北北西端)の「猪鼻湖」である。(今夜の「金曜ロードショー」はMI:2。ベレロフォンがキマイラを倒す!)

「名字由来.net」の「猪鼻」には、

【全国人数】 およそ1,400人
現静岡県西部である遠江国浜名郡猪鼻が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)多田氏族。近年、川越市など埼玉県に多数みられる。猪の鼻のように尖がった地形が語源とされる。

とある。

 現在、浜松市に「猪鼻」さんはいない。
・猪鼻氏は消滅した。
・猪鼻氏は浜名氏となって消滅した。
・猪鼻氏は井伊氏となって消滅した。
という話は聞いたことがあるが、
・猪鼻氏は川越市に移住した。
という話は初耳である。

「なまえさあち」に詳しい情報が投稿されていた。

猪鼻さんの由来と起源に関する投稿

  • 埼玉県比企郡川島町大字角泉というところに慈眼院という寺があり、そこに猪鼻氏の総領家と言われる家の墓地があります。 おそらく当地に定住したところから初代と数えているのだとおもいますが、墓碑をみると 初代 隼人、二代 隼人、三代 彦右ヱ門と読めました。 名前からすると三代目で武士の身分を名乗るのをやめて、郷士となったのではないかと思うのが自然のような気がします。

  • 猪鼻隼人(通称:猪隼太)は、東海道の浜名湖西側にあった猪鼻の駅付近を領地として猪鼻を名乗った。 猪鼻の駅は台風の大波で何度も崩落したといわれ、猪鼻隼人は館をより安全な内地の三ケ日付近に移したとされる。 この館跡は現在も「鵺代館跡」と伝えられている。 猪鼻隼人は、以仁王の平家追悼に主人の源頼政とともに参陣したとされる。 隼人の子供の力王丸は、園城寺の僧侶と供に以仁王の平家追悼の令旨を源頼朝に届けたという言い伝えがある。 猪鼻氏は惣領家の当主が代々「隼人」を名乗った。 鎌倉時代には駿河国駿東郡新柴を領地として与えられ、鎌倉に来る西国の勢力に備える役割を与えられ、箱根外輪山の猪鼻岳(現:金時山)に小城を任されていた。 この領地は室町時代から戦国時代まで維持していたが、戦国時代には後北條氏の家臣となっていたため、小田原の役で北條氏が降伏したため武蔵国川越方面に逃れ定住した。 川越には、北條氏の城代であった大道寺政繁が母の蓮馨尼の為に蓮馨寺を創建した折に一族であった猪鼻民部という人が街割りをしたことにより縁があり、また脇田村(現川越市脇田町など)を開いたともいわれ、江戸時代の初めには一族の一人が脇田の町名主を勤めてもいた。 江戸時代には、猪鼻氏の惣領家の当主は士分をして扱われ、川越藩のお蔵米を管理する職を与えられていたという。

  • 清和天皇ー貞純親王ー経基王ー源満仲ー源頼光ー源頼國ー源(多田)頼綱ー太田伊豆八郎廣政ー猪鼻隼人(通称「猪早太」)

  • 江戸時代の初期に越後出雲崎の井鼻村から来た隼人という人が「井鼻隼人」(井鼻村から来た隼人)と称し、川越藩に当時湿地帯だった川島地方の開拓を申請したのが始まり。開拓が成功し名主となり名字帯刀を許され猪鼻姓を名乗った。江戸時代の終盤は川越藩の筆頭名主まで務めた。 と親から聞いてます。 ちなみに猪鼻家の当主はx左衛門(長左衛門、吉左衛門等)と名乗るのがしきたりです。

  • 岩手県花巻市石鳥谷町猪鼻は、猪鼻氏が奥州藤原氏討伐の恩賞として賜りその分流が定住したことによって名付けられた字名である。猪鼻氏館跡には現在曹洞宗の寺院広済寺がある。

  • 猪鼻早太は遠海国浜名郡猪鼻を領地としたことにより苗字とした。 清和源氏頼光流(多田源氏)で太田伊豆八郎広政の子。猪鼻早太(家伝によれば早太ではなく隼人)は源頼政に仕え、平家物語では鵺退治で頼政の「頼みきったる郎党」として鵺に止めを刺したのが早太であるとされている。しかし、家伝によれば、頼政、渡辺唱、早太の三名で宮中に押し入った盗賊団を退治したのが本当の話と伝わっている。早太の子は力王丸。子孫は鎌倉幕府及び室町幕府の家人として鎌倉時代、室町~戦国時代を通じて、駿河国駿東郡新柴を領地としたが、小田原の役で北条氏が敗れたことにより縁のあった武蔵野国川越へ逃れ、川越及び比企郡川島町付近に定住した。

 先に書いたように、「猪鼻」地名は四国に限らず全国にあるので、全国の「猪鼻」で、血縁の無い猪鼻氏が複数誕生した可能性がある。

 川越の猪鼻氏については、地誌『三芳野名勝図会』「猪鼻町」には、

猪鼻町 脇田村分也。今、脇田村郷保(しょうや/なぬし)・猪鼻氏、草分之町なれば斯く云ふ。猪鼻氏は、天文年中、民部なる者、蓮馨寺開山・感譽上人に随ひ、相州より爰に來て住す。猪鼻氏之先祖は、駿州駿東郡新芝村に、猪鼻之神社に崇め祭る。是は昔、猪鼻何某、駿東郡新芝村を領しける時、普く仁政を行ひける其の徳を慕ひ、里俗、猪鼻権現に崇祭る所也。今猶、此の祠、新芝村に存す。

https://dl.ndl.go.jp/pid/948546/1/98

とあり、『入間郡誌』「脇田村」にも、

脇田村 は、猪鼻町、新田町、西町、一二三番町の辺を含む。猪鼻町は、昔、脇田村の名主・猪鼻氏が草創せる処なるを以て名づくと云ふ。猪鼻氏は、天文年中、蓮馨寺開山・感譽上人に従ひて、相州より此所に來住せりと云ふ。新田町以下は屋舗町に属す。

https://dl.ndl.go.jp/pid/950559/1/91

とある。

 両書共、川越市の猪鼻氏は、天文年中(1532-1555)に相模国(現・神奈川県)と駿河国(現・静岡県)の国境(県境)から脇田村に来て開拓を進めた猪鼻民部のご子孫、もしくは天正18年(1590年)の「小田原征伐」後に猪鼻民部の縁で、川越市に移住した猪鼻氏のご子孫であり、本貫地は「猪鼻神社(静岡県駿東郡小山町新柴)付近」だとする。

 猪鼻神社は「猪鼻岳」(現・金時山)の山頂にある。

 猪鼻砦もあった。

■民部稲荷神社

境内社 民部稲荷神社  御祭神 倉稲魂神

 創立年代は不詳であるが、川越に感誉上人の開山した蓮馨寺がある。この感誉上人に随従して来たに猪鼻民部がいた。民部は相州新芝村の生れで小田原の北条家に仕えた武士であった。川越に土着して蓮馨寺の門前町を拓いた。ここが猪鼻町(現在仲町、連雀町の銀座通り商店街)と呼ばれた。子孫が脇田町分に移り名主役を務めたゆえ、猪鼻町が飛地とされて大字脇田で八幡神社の氏子となっている。八幡神社は今は東に入口があるが昔は西の脇田に向いていた。
 『川越素麺』によると梵心山民部稲荷の老狐物語の伝説が記されている。八王寺在に老狐が人に化身して民部と名乗り浪人になりすました。某寺の小僧は夕方になると毎日寺をぬけ出し民部という浪人の邸宅に招かれて行った。ある夜和尚は小僧にお前はいつもどこへ出かけるのだと尋ねると民部様のところです。ここから西へ七八町も参りますと小高い所がございます。そこのお屋敷ですと答えた。和尚は驚いてかかる武士の邸宅も住いもない所ゆえ小僧が物の気につかれたと思い、お前がお世話になる民部様にお礼を述べ、ご挨拶がしたいからお越し下さるようにと小僧にお奨めしてこいと申し付けたら、早速翌日の夜分参上するとの返事であった。その夜浪人の民部が供の者をつれて寺に参上し、和尚の手厚いもてなしと四方山話に花が咲き、話が角力のことに及んだら民部は膝を乗り出し角力自慢をはじめた。早速民部の供の者と小僧と角力を取って興趣を添えた。翌朝小僧は庭掃除に行くと、昨夜の角力場のあとに狐の毛が沢山散らばっていた。これを和尚に告げると和尚は小僧口外を秘めさせ、民部様に礼言の使者を立てたら民部は故あって川越の梵心山と言う所に新しく移り住むことになったと厚く礼を述べ打身の手当を教えたと伝説に遺されている。
 この梵心山に民部稲荷が古くあったが荒廃し、後に八幡神社の境内に移されて角力の絵馬額が今もお納められている。打身、挫きの時角力絵馬を納めれば験があらたかだとされている。面白いのは角力にこじつけ四畳半角力の水商売の人達の信仰が栄んであった頃もあった。その後心町にまた民部稲荷が再建されたが、現在は丸広百貨店の守護神として屋上に鎮座している。前記の鼻民部の旧地相州新芝村にも猪鼻稲荷が祀り残されているという。

現地案内板

【猪鼻氏の変遷(現時点での結論)】

・源氏(多田氏)
  ↓ ・領地を拝領
・遠江国浜名郡:猪鼻湖(奥浜名湖)湖畔「鵺代」の猪鼻氏
  ↓ ・領地を拝領
・駿河国駿東郡:猪鼻岳付近に移住
  ↓ ・北条氏の没落
・武蔵国入間郡:川越(猪鼻町付近)に移住


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